通りの向こう側、歩くあの人

通りの向こう側、歩くあの人
        2019/02/25
        十河智

 こんな人はあなたの回りにいないだろうか?
 案外近い知り合いなのに、考えてみたら、あまり知らない、まるで、人生のどの曲がり角を曲がった後でも、ふと気づくと、通りの向こう側を歩いている。
 そんなひとの話をしてみたい。

 高校の一年上の先輩である。
 進学校ではクラブ活動は2年の夏休みまで、少し長くても11月始めの文化祭まで。なので、ESS の先輩でもあったが、一年生のときは高校生活に慣れるのが必死で、先輩にくっついていても、仲良くその人を知れるまでにはならずに終わる。
 今思い出すと、文化祭の一年生の時のドラマでは、七月から十月いっぱいほぼ毎日、校舎屋上で、たまには二人きりで発声練習をしていたのだ。私は通りが悪い声質で、隠るらしく、特訓が必要と言われたのだった。屋上で、空に向かって、ただただ声を張り上げていた。目標に一生懸命で、横の先輩が誰かにはあまり興味がなかった。
その先輩が彼女だったと思い出す。彼女も発声法について教えるのだが、張り詰めた高くて上品な声だが、それほどよくとおるとは思えぬ細い弱い声で、優しくそっとアドバイスするのだ。印象が薄く、後に再会しても、そのことはすっかり記憶から外れてしまっていて、二人でその事に触れたことはない。
 クラブ活動にこなくなると、縁が途切れる。どこへ進路を定めたかも知らなかった。
 一年半後、私が受験のとき、一緒に受験する子のお姉さんが、四年ほど上の、高校と大学の学部も先輩で、女子寮の受験生の宿泊受け入れを世話してくれた。その人が、学部でも一年上に二人同じ高校の子がいるよと教えてくれた。一人は父の出里の知り合いの娘さんとわかり、寮生でもあったので、受験中の世話をお願いに父と行った。受験は田舎者の娘には大変な出来事だった。父もこのときはいろいろと出てきてくれたなあと思う。
 無事合格して、二年後、薬学部で授業を受けるようになると、ロッカー室で、実験着に着替えるようになる。もう三年生も終わりかける冬のある日、ロッカーで隔てられた向こう側で声が聞こえた。懐かしい声であった。Uさん?と思ったが、顔をみるまで確信はなかった。顔を会わせて、お互いに、こんなところでという戸惑いの間があった。話が進むような情報もなく、お互いの友人もいたので、お久し振りの挨拶だけして、別れた。どちらも非社交的、引っ込み思案が似ているかもしれない。
 その頃、もう四年生は就職先は決まる時期で、すぐに卒業していった。また一年ほど、消息は知らずに過ごした。
 東京でウーマンリブという運動が起こっていた。ヘルメット、マスクで勇ましくデモをする姿がニュースになっていた。
 実験の指導に当たる男子大学院生が、噂に「卒業生にも一人、ウーマンリブに熱心な子がいる」と囁いていた。耳を疑ったが、それは彼女だという。知ってる人は、必ず最初は信じないくらい想像できない転換に思う。何があったのだろうと。
 ただ、同じ道を辿る女子として言うと、ウーマンリブには走らなかったが、根本に、共感するものはあった。女の子であることへの閉塞感から解き放たれたいという思いは、私もその頃強く感じていた。
 二人のシモーヌシモーヌ・ド・ボーボワールシモーヌ・ベイユが、一番親しい女友達との話の中心であった。女の子の殻を破りたいという切なる思いが、内から込み上げてきてはいたが、行動には出せずにいた。親の希望通りに、羽ばたくことを選択せず、田舎に就職し、四年間在職して、同郷の主人と見合い結婚した。それなりに努力はしたが、周囲からは結婚までの腰かけとお定まりのコースと思われているだろう。
 彼女がウーマンリブの退潮とともに、普通の生活に戻っていっただろうと想像するしかない。結婚などの時期は、全く別のところで暮らしていたのだから。
 ただ、後でわかることだが、知らなくても、仕事を通じて接していたことがあったのだ。
 パートタイムでかろうじて、仕事を続けていたが、子育てをそろそろ終える頃、大病も経験、神戸の地震もあった。これで人生を終わるのか、と振り返り、一大決心をした。
 その頃、医薬分業が急務と言われていた。二十年くらい前である。小さくてもいい、薬局を、地域密着型の処方箋もOTCも扱う相談できる薬局を開設しよう。それを念頭に、経験の少ない病院薬局や、各科受け入れる調剤薬局にも行き、その後開局に漕ぎ着けた。子供を連れて来てもいい条件で、子育てを支援することも加味して、友達二人が、来てくれた。十年くらいで六十が来る頃だったので、その頃までかなと、考えてはいた。うちに来ていた友人たちも、子育て中、中断がなかったと、喜んでくれた。子供の何人かは薬学部に進んだと後で聞いた。医薬分業は理想的ではなく、チェーン店が隆盛で、経営は年ごとに大変になり、私の給料までには至らなかったし、全て手作り感のある棚や掲示ではあったが、破綻せずに終うことができた。
 彼女が思い出したように年賀状をくれる時期があった。薬局を開設して、薬剤師会に名前が出たときにわかったらしい。
 彼女はその頃、うちに出入りの卸の管理薬剤師をしていたが、そこは調剤薬局への情報提供にとても力を入れていてありがたいと、日頃から思っていた会社であり、彼女がその推進役だったのだ。
 何ヵ所か営業所は変わったようだが、その会社のMRやプロパーが、役に立つ資料をくれたり、「電話でうちの薬剤師さんに確かめます」と、疑問点があると、そう言ってくれていた、その先に彼女が繋がっていたのである。
 薬局も閉めて、数年が経つ。
 最近、京都の大学の友達が、ある会報に載った、彼女の癌の告知後の暮らしと、再発後は亡くなるまでの選択としてなにもしないと決めたことを記した文章を、「先輩でしょう」と、ファックスで送ってくれた。
 やはり情報提供に全力を傾けて仕事をしていたことが、紹介されていた。最後は、冷静に自分の体力と、家族との平安を天秤にかけ、選択したが、最後の最後まで、生き抜くと結んであった。
 掲載の前に亡くなったとあった。


あの人の訃を聞き及ぶ寒夜かな


よく通る声が出るまで夏の雲
屋上に汗して演技練習す
ソクラテスの妻のドラマや文化祭


再会は寒き学部のロッカー室
夏の頃ウーマンリブに嵌まるとふ
帰省して風の便りに触れにけり
年賀状結婚をして子を育て


あの方の亡くなられしは冬初め