すももの木の物語

すももの木の物語
       2016/07/15

 一 結婚、家の始まり
 私達が結婚した頃は、女子大生亡国論なるものが言われ、女の子の進学率が上がりかけた頃、結婚までの腰掛け的就職が普通であった頃である。私も25才になると、周囲に急かされるようにお見合いをした。職場でも結婚相手を見つけるから残れと慰留されはしたが、同じ四国でも、四県それぞれに気風が違い、徳島で相手を見つけられないと思った。結局、ふるさと高松の小学校区が隣、中学校、高校が同窓、弟同士が同級生、お互いの家同士も商売する店として知っていた、ごく近いところに縁を見つけ、結婚相手を決めた。産業の希薄な地方都市にはよくあるパターンで、主人も大学から家を出ていた。稼業は弟が継いで、自分はサラリーマンというのも私には良かった。
 主人の親が、家を用意してくれた。大手の分譲地の端っこで、敷地の半分は矩地という土地に、材木屋の義父は、大工を連れてきて、家を建てた。庭石や、松、樫、いぶき、槙などの植木類も、庭師に運ばせた。矩地には、成り木がいいと、八朔、金柑、柚子、山椒、梅、柿、すももを植えた。すももがうちに来たのは、この時である。

 二 成長
 すももの木は、まだ一年目か二年目のひょろ長い幼木であった。定着して、花が咲くまで、心配したが、花は、少ないながら翌年には咲いていた。私は、大学時代の同窓生が同じく結婚退職して関東地方に行くので、その後釜に職を見つけて滑り込んだ。主人は、バブルの頃の仕事人間で、とても長い昼間の一人の時間は耐えられそうにないと思えたからであった。じっくり選んだ仕事ではなかったが、子供が出来るまで充実した職場で過ごした。履歴書を書く度思うのだが、核家族の主婦として、細切れの仕事人生のはじまりだった。植え替えて三年目くらいからすももの木に実が付いた。娘の誕生の方が早かったと思う。庭の手入れは、草抜きくらいで、剪定は、植木屋に頼まざるを得なかった。梅、柿と蜜柑科の木は、あまり大きくならないが、すももは、枝を張って、広く高く伸びていった。敷地内に納めるために、木に登り、自分で枝打ちをすることもあった。幼いうちは、家にいてやりたい、というか、保育所に入れられず、そうするしかなく、アルバイトで文献翻訳の仕事を貰い、正社員はやめていた。(最近、炎上したというツィッターかブログかの保育所関連の投書騒動には共感するところ大である。四十年経っても変わっていない。)娘は、矩地で段ボールのそりで遊び、すももの木と共に成長した。

 三 流浪?のパートタイマー、かなぶん・落果夥し
 娘が学校に行きだしてからは、その帰宅時間に合わせて、あるいは、医薬分業の進展具合に合わせて、結果として二年から三年で職場を移り歩くことになった。薬剤師としては、行政以外の、製薬企業、環境衛生、病院、薬局と幅広く経験することができたが、一本筋の通ったキャリアではない。都会の住宅地では、自治会の役員も当番で回ってきたし、学校も役目を逃れることはできない。そんなこんなで、いつの間にかすももの木は、庭の四分の一を占める大木となり、どこかに売るわけではないので、一家三人で食べるだけ収穫するが、木には沢山の実が残る。八朔や金柑も同様なのだが木に残るし、落ちても拾うことができる。、すももの実は、熟すと全部落ちる。庭中にすももの甘酸っぱい香りが充満し、それにかなぶんがまた夥しく寄ってくる。そして、最後に腐る。秋の終わりには、気にならなくなるのだが、正直、いいことずくめではなかったのだ。住宅街の端っこで、隣がないことは幸いだった。この間に両方の親が続けざまに三人亡くなり、私の母だけが長生きしたが、大腿骨骨折で寝たきりに近く介護が必要になった。親の看病、介護には、大阪・高松間を幾度となく、一人であるいは、娘を連れて往復した。近くにいる両方の弟夫婦にはかなわないが、できる限りのことはしたいと思っていた。母も十年介護して、既に亡くなった。

 四 すもも薬局の開局と閉局
 細切れだが、続けてきた仕事のまとめとして、最後に開局したい希望があった。夫は同業ではないので、自分で頑張るしかなく、40才頃の開局を予定したが、その頃に大病を患い、二年遅れたときには、バブルがはじけていた。地価が上がり、計画を断念せざるを得なかった。病後の養生中に、運転免許を取得した。諦めたものの、開局したときの便利さを考えていた。その後開局までの十年間は、子育て中に共に時間をシェアして働く便宜を図ってくれた最初の薬局で落ち着いて仕事をした。俳句を始めていた。夫は、山梨や金沢と単身で赴いた。娘は、大学生になっていた。その間に神戸の震災もあったし、家のリホームもした。すももの木は、幹を太くしつつ、毎年花を咲かせ、実をたわわに付けては落とし、庭に当然あるものとして立っていた。十何年も経つと、そのうちに花が咲かなくなり、実を付けなくなっていった。丁度そんな頃、地価が少し安定してきた。今こそ計画実行の時と決心し、五十才頃やっと開局にこぎつけた。夫は反対しなかったが、娘は少し難色を示した。初めから、赤字が出なければいいとしていた。厚労省や日薬のいう地域相談薬局を目指したかった。子育て中の薬剤師と、私もありがたいと思った、ワークシェアリングをして、お金を掛けずにできることは自分がやって、今でこそ言葉が定着しているが、かかりつけ薬局を目指そうとした。薬局名は、家族で決めた。薬局に、地名や姓を冠したがどうも合わない。庭のすももの木を見て、三人で「すもも薬局」がいいとなった。小学生の子供を持つ友人の薬剤師二人が手伝ってくれた。事務も友人で、元銀行員の人が来てくれた。その間には、消費税が導入され、医薬品の分類や、販売の形態が変わり、保険の仕組みも変化して、法律に振り回された。薬局の個人経営は、どんどん難しくなっていった。よくがんばったものだ。十三年で、小学生は、高校卒業くらいにまで成長し、薬剤師の二人は、今別のところで、現役でやっている。娘は結婚し、孫は二人目を産もうとしていた。薬局は閉じることにした。近隣に、スギ薬局赤壁薬局、ウェルシア(イオン系)、それにそれぞれの門前薬局、もう限界だった。孫の面倒を見てやろう、娘はそれを望んでいる、そう思った。

 五 後始末、すももの木倒れる
 今書類によって異なる、留置期間が終わったので、書類をシュレッダーに掛けて処理している。閉局前の一年間に、医薬品や備品の転売や片付けをやった。高価で、期限があり、捨てるのにもルールがあるので、時間が掛かった。五年目で、書類を処理し終わると、ほぼ完了する。孫の弟が六才になった。これからは、八十才までに身の回りの整理をしていかなければと考えている。
 今年は、特に雨の降り方が尋常ではない、一度の雨量が、これまでに経験したことのない位ばかり続く。五月末から六月中、何度も、何日も続く大雨が降った。土が乾かず、土砂災害に注意と、市役所が触れ回っていた。すももの木は、カーテンを開けると前面によく見えていた。ところが、ある日、あるべき位置にその木が見えない。おかしく思って、下に降りてみると、根元に洞が生じていて、そこが折れて、矩地なので、うまくソフトランディングしていたのだった。地形に助けられていたが、少々びっくりであった。大事にならず、よかったと思う。最近少し花も実も復活していたのは、風前の灯火の具現であったようだ。植木屋に依頼中だが、今もすももの木は横たわったままである。少し残して、生かせるものなら、また再生してほしいものだが、まだわからない。
 すももの木の物語を書くつもりが、私の過ぎ越し物語と重なってしまった。

 細き枝にすもも咲きけり吾子抱きて
 すもも咲く白一色に庭被ふ
 すももの木かなぶん轟めくほどに
 巴旦杏庭埋め尽くす落果かな
 語呂良しとすもも薬局すもも咲く
 老木の茂りの頃や店を閉づ
 荒梅雨や夜を日に継いで地を叩く
 梅雨に負け頽れゐたるすももの木
 黴匂ふ木の一生を見届けぬ
 草茂る中よりすもも余糵かな