小室哲哉さんの記者会見をきっかけに考えさせられた。

小室哲哉さんの記者会見をきっかけに考えさせられた。
       2018/01/22
       十河智
 小室哲哉さんの会見を見た。疲れきった、歳を感じさせる、しかし、自分の行為を不用意ではあったが恥じることないと告げ得ている、肯定できる会見であったように思う。フアンというには、時代がずれているが、娘の育ったときのお相伴で、彼の音楽や若いときの浮き名も知っている。それと同列に持っていきたかったのだろうが、文春は生身の人の本当の苦しいところをさらけ出させてしまった。見るものにそこまで言わせる必要があったのかと思わせてしまった。似合わなく、たんたんとする苦労話が、却って、彼の真実、人を求める心情を見せ切っていた。
 話は変わるが、私には、別の体験談がある。身内に脳を損傷し、意識不明数ヵ月を経て、赤ちゃんがえりし、そこから何年も、もう一度知能的に育ち直して復活した人がいる。患者が病院の掲示板のひらがなを読めたとき付き添っていた家族は飛び上がって喜んだ。進歩に希望が持てたからだ。家中のものが、代わり合って付き添い、その時期を乗り越えた。本人や直接の家族にはまだ続いていることだろうが、周りのものには、すっかり過去のことくらいにもう落ち着いたが、当時は先が見えないただ患者を支えて次へと必死な状況だった。
 またまた、話は変わるが、在宅医療や自宅での最後の看取りは、今現在の大きな社会問題である。医療人が患者本人と介護する家族を支える話はどの研修会にいっても話題となる。家族を支える、親身になって話を聞くということは、具体的にはどういうことなのだろうか。線の引き方はみんなで考えなければいけない。みんな生身の人間で、癒しや心の通い合いということには、微妙に今回の発端となった事例が重なって見えてくる。
 小室哲哉さんの記者会見をきっかけに、いろんなことを考えさせられた。団塊世代の年寄りとして、在野の医療人のなれの果てとして。

凍てるかな人の温もり恋しかり
看護師と在宅患者ペチカ焚く
冬館人に寄り添ふ医療人
寒牡丹下衆の勘ぐり際まれり
水仙や埃にまみれなほ優雅