ピアニスト

ピアニスト

 ごく身近にその実力を認められつつあるピアニストがいる。有馬みどりさんという。まだあどけなさの残る二十歳頃から、夫の友人有馬雅子さんの娘さんとして知っている。有馬雅子さんは、ピアノ教室を開いておられ、香川県高松高校の同窓生で、私からすれば先輩でもある。夫が四十歳の時、同窓会のお世話をしたときに再会した後、クラッシック好きな夫に、みどりさんの師である野島稔さんのリサイタルに誘ってくださったのが、親交を深めるきっかけとなった。雅子さんは、関西で野島稔さんが公演をするときのマネージャー的存在であったらしく、練習室を提供されたり、チケットを引き受けたり、いろいろ走り回られていたようだった。おかげで、私たち夫婦は、レコードやCDなどの世界から抜け出て、クラッシックを生の演奏で聴く楽しさを知ることができた。野島さんも壮年期で、演奏に迫力があり、毎回公演の後の充足感は大きかった。
 私たちがみどりさんに会うのは、その十年後くらいであるから、その頃みどりさんは、まだ小学生か中学生、ピアノを本格的に野島先生について習い始めた頃であろう。雅子さんは、才能を尊重し、みどりさんの将来を野島先生に託して、その後、十五歳でロシアに単身留学させたのである。有馬さんのおうちに何かで伺うことがあった。そのとき、親子で用意したというアサリご飯とお吸い物をごちそうになりながら、和やかに胸の内明かしてくれていた雅子さんを思い出す。
 西宮にお住みだったので、神戸の震災の時は被災された。お見舞いに伺ったが、壁に少々ひび割れが生じたくらいで、皆さんご家族は無事であった。周辺は、崖崩れや、堤防の崩れがあり、おうちに行きつくまでが大変だったことを覚えている。うちでも娘の大学が大変だったので、だいぶ立って、三月頃であったが、復旧工事が始まったくらいであった。しばらくは、神戸もコンサート会場もなく、野島稔さんのコンサートもなかったように思う。有馬みどりさんは、海外での演奏活動が多かったようである。
 そして、その音信が滞っている間に、有馬雅子さんは癌と対峙していたようである。みどりさんも看護のために寄り添っていたという。亡くなられたことはみどりさんからの電話で知らされ、寝耳に水のことで、夫はとても驚いていた。自宅にお参りさせていただいた。ピアノ教師としての雅子さんは、お弟子さんに慕われていて、お参りする人が大勢であった。その方たちが、今、有馬みどりさんの活動を応援されている。
 その後は、みどりさんのミニコンサート、リサイタルなど、催しがあるたびに、案内が来て、必ず聞きに行っている。西宮、芦屋、三宮、三十人程度から百人程度のコンサート会場がこんなにあるとは、経験をして初めて知った。兵庫県立芸術文化センターや、いずみホールでのコンサートは、私たちまでも誇らしく、堂々とした演奏に聴き惚れたものだった。応援されている皆様の支えも大きいと感じるものがある。どのコンサート会場に行っても暖かい愛情が感じられる。手作りのコンサートという雰囲気がある。
 この2年ほど、ヴェセリン・パラシュケヴォフというウィーンフィルやケルン放送交響楽団コンサートマスターをしたという第一線のヴァイオリニストに指名されて、デュオ・リサイタルを開いている。一流の演奏家のヴァイオリンは、圧巻であった。みどりさんは、よく融合していると思った。夫への電話で打ち明けるのに、大変な努力があったと聞いた。このデュオ・リサイタルは、来年、日本の東京など何カ所かで開かれることになっているという。どこかで、開催を聞かれることがあれば、是非聴いていただきたいと、おすすめしたい。
 つい先頃、みどりさんがソロで、コンサートを行った。芦屋のClassicaという八十人規模のホールであったが、クラッシックの演奏のために設計された、音のとてもいいホールだった。時間通りに入ったために、二階席になったが、みどりさんのしなやかに踊る指の動きが見えて、よかった。ティーブレイクがある、まさに、和やかな、常連のフアンの集まる、有馬みどりさんのコンサートであった。
 夫はピアニストと結婚したかったらしい。結婚相手は私で悪かったが、二人で、ピアニスト、有馬みどりさんを、これからも応援しましょうね。

繊細(ナイーヴ)を弾く激しさや清き汗
新樹雨やロビーの熱り鎮まらず
五月闇余韻に歩く至福かな
春来たる二の腕太きピアニスト
五月雨にラヴェルの世界赫とあり