倉吉 ----- 「スーパーはくと」の終着駅

倉吉 

-----「スーパーはくと」の終着駅
  2015年 秋の終わり

 今年の高松高校同窓会、恒例の女子旅は、訳あって、期待が大きかった。行き先が、倉吉・三朝温泉と決まったからである。これは大学時代の友人のことであるが、倉吉の人がいる。彼女は、独特の雰囲気のある人で、芯に倉吉の風土を今も持ちこたえているようなのである。大体が私たち故郷を離れ、都会に住むものは、故郷のにおいや味は、長年の都会生活の中で、消え失せてしまうものであるが、彼女は転勤族の夫を持ち、幾度も転居を繰り返す人生であったにもかかわらず、会えば、倉吉の人であったことを思い出させる。一度、倉吉に行ってみたいと思っていた。その機会が訪れたのである。
 倉吉、そして三朝温泉には、一度も足を伸ばしたことがなかった。大阪からは、若狭や大山、境港くらいまで、高松からは、出雲、秋吉台蒜山くらいまで、日帰りや一泊くらいの旅では、少し遠めになるので、候補に上がっても、次にしようということばかりであった。大体が、この女子旅は、会って、おしゃべりして、元気の確認が目的なので、往復の汽車の切符と、サービスのよい旅館があれば、少し距離があっても行けるのだ。京都、大阪から出雲は遠い、出雲は来年高松の幹事に提案して、この旅会では、三朝温泉と決まった。
 スーパーはくと、一本で、倉吉まで連れて行ってくれた。例のごとく、京都、大阪、三宮から乗り合わせて、八人、山陽から山陰へと縦断して、終着駅が倉吉である。
 倉吉の人の話を少し。私が大学生になった頃は、女子の進学は、今の比にならないくらい低く、進学校でも70%くらい、一般的には短大も含めて40%前後だったと思う。はじめから進学と決めていたわけではなく、あれよあれよと田舎から流されたように、京都に来ていたので、私自身も、不安定で、落ち着かない時期であった。一番気になったのが、方言というよりも訛りがでないかということであった。学年には80人中20人くらい女子がいたが、近畿圏の人たちが半分で、私と、倉吉の人、広島の人、岡山の人、静岡、長野の中部圏の人。後に、同窓会で、長野の人がいった。入学したての頃は、孤独だったと。外国に来たようだったと。最後までよそ者のようだったとも。その人は、今も大阪だが、アクセントは、関東圏のもののままである。私は、自分の方言がでないように、早く関西弁のアクセントに紛れたくて必死だったときである。人のそんな思いなど知るよしもなかった。しかし、倉吉の人には、忘れられない事件があった。英語の授業で、順番に教科書を読まされたことがあった。50年昔である。高校の英語でも、朗読や会話に関しては、最悪のレベルだった。皆たどたどしく、教授の機嫌は、最高に悪かったのだろう。倉吉の人の番になり、立ち上がって読み始めたとき、止められた。もう一度はじめからと、何回か繰り返させた。訛りで、英語になっていないと叱るのである。私は、この先生は、この人にはどうしようもない言いがかりにも似た叱り方をどう処理するのかと、自分にも降りかかりかねない心配もあって、びくびくしながら、終わりを待った。立たされたまま困っている同級生の姿が今も浮かぶが、どう治まったかは忘れた。引っ込み思案の二人だったが、徐々に話をするようになった。とても礼儀正しく、凜としていて、教養のある人で、倉吉の町のことを語ってくれた。お茶の稽古に励んでいて、ふるさとの先生の紹介で、家元に習いに行くことになっているという。高松も同様であるが、日本には、こういう文化や教養の下支えがある田舎が多い。倉吉も城下町だという。その頃から、一度倉吉に行ってみたいと思っていたのだ。
 秋の終わりの肌寒い日であった。四時間半の汽車の旅で、終着駅、倉吉には、二時過ぎに着いた。降りる人は少なかったし、駅やその周辺にも全く人がいなかった。整った町であった。列車の到着に合わせて、三朝温泉から何台かの迎えのバスが待っていた。降りた人は、ほとんど温泉へ行くようだった。バスに乗ると、老い始めたドライバーであったが、観光バス、観光タクシー、そして、今の送迎バスと、運転経歴から話し始め、道すがら案内をするので、町を歩いてほしいという。駅前の白壁の交番は、町の名所の白壁通り赤瓦を模したもので、また、駅前に、倉吉の名産の梨を実らせ袋がけにしているという。白壁通り赤瓦に行くバス停も教えてくれた。皆で、明日の帰りにゆっくり寄ろうという話になった。欅の少し寂びた黄色の落ち葉が積もっていた。閑かで落ち着いた町であった。ケンタッキーフライドチキンの看板が見え、地元のスーパーは、広い駐車場にバス停もあり、車も多く止まっていた。住宅街を抜けて、少し山間の温泉街にはいった。旅館は、世話人のおかげで、いいところであった。山の麓で、中腹の投げ入れられたという伝説のお堂が窓から見え、紅葉も綺麗であった。今の皇太子殿下もお泊まりだったようで、ご夫妻の写真が飾られていた。温泉につかり、山の方、川沿いのお店や足湯を覗きに行くものもあった。観光案内所で、女子旅ご褒美パスポートなるものを手に入れ、お土産をゲットした。旅館のサービスも女子旅には、デザートが特別のものであった。もう若くはないので、デザートに行きつく前に、食べきれなくなっていて、私は手をつけられなかった。心残りである。おしゃべりが目的であったが、遠路はるばるの旅のせいか、その夜は、早く眠りについたと思う。もう七十歳の女子旅である。おとなしいものだ。
 翌日、十時過ぎに旅館を出て、ドライバーおすすめの白壁通り赤瓦を散策し、お昼を食べて、二時半頃のスーパーはくとで、帰ることにした。ところが、私が大失敗をしでかした。送迎バスを降りると何か寒々しい。風が首筋に纏いつく。コートとマフラーを旅館のクローゼットにそのまま置いてきていたのだ。都合のいいことに、散策に加わらずに速い列車で帰る人が、旅館に一人残っていた。その友人に訳を話し、駅で受け取ることにして、昼食の場所には遅れていくことになった。駅前のベンチで句を作りながら待っていると、朝のはくとから降りてきた、同年配の二人連れがいた。一人が、座席に帽子を忘れてきたといい、慌てて戻っていった。帽子はあったらしい。終着駅なので、列車は、そのまま折り返すのだ。私は、少しほっとした気分で、二人を見送っていた。コートを渡した友人は、その折り返し列車に乗る予定なのだ。
 遅れて白壁通り赤瓦という地区に着いた私は、皆のいるそば屋がわからず、歩いている人に道を聞いた。残念ながら旅行者だという。ゆったりと子供連れで歩いていたので、幼稚園の看板にも惑わされ、地元の人だと思ってしまった。携帯で、連絡すると、幼稚園を手がかりに、お店の人に情報を得て、連れが迎えに来てくれた。迷惑の掛け通しであった。おそばはおいしかったが、手打ちで、準備に手間がかかるらしく、私が加わってからも少し待つくらいだった。倉吉駅までのバス停まで歩いていて、バスの路線が二つあったことに気がついた。降ろされたところと違っていたのだ。知らない町では、よほど気をつけないと行けない。
 駅で、時間まで、土産物屋とコーヒーショップに立ち寄った。入院で来られなかった、メンバーに倉吉の佇まいをよく表している絵はがきを買った。駅ナカのコーヒーショップはおいしいコーヒーを置いていた。鳥取にスタバがないと大騒ぎしていたが、ケンタッキーもスタバもなくてもおいしいものはあるのにと思う。そういえば、旅館の従業員からも駅の案内所や駅ナカの店からも、私が昔、倉吉の人から聞いた訛りが消えているように思った。日本人は皆バイリンガルと冗談めかしていうくらい、標準語を話すときと、方言を話すときが、別の回路になっているのかも知れない。少し寂しい気がした。
 倉吉の人には、旅行後に、旅で作った俳句集を送った。彼女も、脊柱管狭窄症で、術後のリハビリ中だった。メールが返ってきた。彼女も彼女のご主人も一泊した旅館の近所に実家があるという。若いときは、よく帰っていたので、投入堂のあたりまで子供を連れて登ったという。回復は順調そうだし、入院中の慰めになったかと思うと嬉しかった。

     鄙の駅梨の大きく実りけり
     欅黄葉スーパーマルイ駐車場
     晩秋の倉吉の道送迎す
     倉吉は落ち着き払ひ蔦かづら
     秋冷や風に教わる忘れ物