高野山へ — 人に会うとき、すこしの覚悟

    — 人に会うとき、すこしの覚悟

若い頃からの友人である。大学を出て、ふるさとからそう遠くない徳島県鳴門市の製薬会社に勤めた私にとっては、ほぼ地元で会ったが、一年後に入社の彼女は、神戸の人で、大学は京都、センスの良い美人で、都会的な人であった。会社は、成長の黎明期だったと思う、男子は、いろいろな大学から人材が集められていて、それなりに活気があり、女の子らしく親元に近いという理由だけで選んでしまった私であったが、大いに仕事をしたし、山あり海ありの徳島で、よく遊んだ。彼女もそういう仲間の一人であった。彼女は、マドンナであったし、同僚達からは、何でこんな田舎に、と不思議がられたりもしていた。彼女には、グループ会社に同時に入社した同窓の友人があった。徳島の人である。たぶんこの親友に曳かれて、田舎に舞い降りたのであろう。私も同じ京都で学生時代を過ごしたが、大学は違った。その頃の女子は、少数の例外を除いて、結婚までの一時期しか在職しない。いわゆる腰掛けと言われた。私は、四年半勤めたが、彼女と、徳島の人は、二年弱の在職であった。そういう時代であった。
 結婚後、彼女は枚方、私は寝屋川と近いところで住み、連絡しあって、年に何回か訪問しあった。鳴門時代には、知らなかったお互いの事情もわかるようになり、つかず離れず、距離を保ちながら、気遣い合う関係で、ここまできた。徳島の人は、結婚後横浜に住み、帰郷の途中に彼女に会いに立ち寄った。何年かに一回、私も呼ばれ、子供連れで三人が会うこともあった。子供達はいつの間にか大人になり、私たちは、運転免許の返納を考える年齢になった。長い年月である。
 彼女は、何度か引っ越して、今は、奈良に住んでいる。横浜の人とは、もう二十年も会っていない。同じ世界に居るので、会えばすぐわかり合える。奈良の佐保川沿いの桜は、彼女に教えられて、毎年花見に行く。そして、ほんのたまに彼女と会う。。一緒に参加していた勉強会も、いかなくなった。会う機会はどんどん無くなっていった。傍に居ても、存在を感じつつ、会えないでいた。また一度横浜の人も入れて三人で会いたいと、彼女に会う度に言っていたのだが、二十年過ぎてしまったのだ。
 いつもは、メールで連絡し合う彼女から、「高野山へ行かない?」と電話があった。横浜からの人と三人で計画しているという。彼女が運転して車で行くという。直ちに行くと返事をして、何もかも彼女任せに、一と月後、旅行前日に、奈良公園においでと言ってきた。彼女たちは、高野山に行く前に正倉院展を見るという。私は、主人の車で、奈良公園に向かい、二人はまだまだエネルギッシュなんだと思いつつ、博物館脇で待つ。
 やっと会えて、いざ、高野山に出発。
 遺跡発掘が邪魔して、寸断の高速道路は無料区間が多いという京奈和の奈良県部分を通り、橋本から高野山へ、途中昼食に何故か讃岐うどんの店に立ち寄り、そこがまたおいしかった。運転は問題なかった。私は高速にはもう乗れないのに、彼女はすいすいと走る。そこで、いつ運転をやめるかという話が出た。七十才で、仕事を辞めたら、返納するという。私も寝屋川市内であるが、まだ仕事に運転が必要なので、いつまで仕事を続けるかという、極めて現代的な社会問題の中に、自分たちがいることを改めて悟る結果になった。何はともあれ、しゃべりつつ、地図を辿りつつ、宿坊に無事到着した。それぞれに、何度目かの宿坊であり、高野山である。
 宿坊は、昔は学生達の安い合宿用であったが、少し趣が変わっていた。外国人のグループが三組あった。若い僧侶が同時通訳や話し相手になって、外国人も英語がわかれば、不自由なく滞在できるようであった。私たちの泊まったところは、紅葉では、高野山一の庭という。いいときにいい宿坊に泊まれたのだ。精進料理は、変わりばえしないが、おいしかった。朝の勤行は、正座ができない私は、遠慮して廊下で聞いたが、説教が長く続いたらしく、二人はなかなか出てこなかった。高野山の四季の写真集を見て待っていた。朝食の後、土産物を宿坊の向いの店で買った。試食の作りたての餅がおいしかったので、それにした。後でわかったことだが、商品は、真空パックしていて、少し味わいが違っていた。
 金剛峯寺に行き、いつものことだが、二人に動き回って貰って、私は、その辺に腰掛けて句を作った。履物屋に行きたいというので、大きな銀杏の木の下で待っていた。ごま豆腐の店を探していき、作りたての薫り高いごま豆腐を食べた。それぞれの家の者に食べさせたくて、宅配便を頼んだりした。高野山でお昼にしたかったが、外国のツアー客など、予約でどこも入れなかったので、早めに山を下りることにした。途中、何故かやはりうどんを食べた。このうどんは、あまりおいしくなかった。その店は、ソフトクリームがおいしかったようだ。食後に二人が食べていた。高野山から下りて、奈良に入ると、柿を売る露店が多くなった。横浜の友人は、旅行鞄に高野土産、その上に柿を買った。持って帰れるという。
 横浜へは、京都から新幹線に乗るというので、彼女は、もちろん京都まで、西大寺から近鉄奈良線で行き、京都駅で見送るという。私は、どうしようかと思ったが、横浜の人には、もうこれで会えないかも知れないかなという思いもあり、京都で、もう一度食事をしてお別れしようと、京都経由で寝屋川に帰ることに決めた。この年になると、人と会えば、ひょっとしたらこれが最後かなというかすかな不安がよぎるのである。すぐに死ぬとは思ってないが、人に会うときには、すこしの覚悟めいた感覚が生まれるのだ。同窓会など、頻繁にしたいという人も出てくる、それも、何かしら脳裡に霞む覚悟の現れなのかも知れないと思う。若いときには無かった感覚である。そんな気持とは裏腹に、京都で、おいしい食事をして、にぎやかに、二人と別れた。
 その後、高野山での句を送ったが、それきりである。また突然会う機会がやってくるかも知れないが、あれが最後かも知れない。

   朝寒に行列長き博物館
   たまたまに高野一なる紅葉寺
   門前に銀杏古木や堂々と
   履物屋高野金剛峯寺の秋
   澄む秋の奈良より京都帰路定む