成人式、そして震災 = 1995年1月17日前後

 今年は、あれから20年ということで、阪神淡路大震災のニュースの扱いが連日で、しかも大きい。
そのとき、娘が神戸で大学生であった。ニュースでも、成人式を迎えたばかりの若い母親が子供を残して犠牲になり、その子が二十才で、今年成人という話や、成人した大学生の息子を亡くした六十八才、私と同い年の人の話など、成人式直後に起きた震災が印象的で、よく取り上げられている。もしかしたら私の運命もと思ってしまう、あの震災前後の一週間の幸せから最高の不安と心配の異常の渦へ巻き込まれていった思い出が重なる。  結果、娘は無事で、何事もないように,我が家は平和であるのだが。その時の私の受けた衝撃は、大きく、未だに鮮明である。刻々変わる状況に付いていくのがやっとで、気持ちを整理し、把握するためにも、吐き出す様にして作らずにはいられなかった、百句程の俳句がある。今その俳句をもう一度読み直している。そんな俳句の作り方をしたのは、後にも先にもこの時だけであり、それは、私の俳句というよりも、一つの大事件の記録であり、迫力あるドキュメントでもあると、20年経った今読み返して、そう言い切ることができる。
 大阪にいて、震度四のちょっとした地震と思っていた、神戸で何があったと知るまでは。娘に着せようと、一世一代の大仕事で用意した晴れ着を着せて、その当時から子供達にとっては、中学の同窓会と化した成人式に行かせ、親としては、大満足であった、16日。試験が近いこともあり、成人式のためだけに帰宅していた娘は、すぐに神戸に帰っていった。
 その翌朝のことである。日が昇り、神戸の様子がわかると、電話をするのだが、繋がらない。娘は、明石が最寄り駅の神戸学院大学に通っていたので、まさか淡路から明石、豊中、八幡と断層線上にあるとは思わず、神戸の外れで、直下型なのだからと、かなり様子がわかった時点でも高をくくっていた。夜になってようやく連絡が付いた。「私は無事だが、学校の辺りは、ひどい被害だ。友達の下宿は、八時だよ、全員集合のセットの様に、壁一面が崩れて、丸見え状態のところがあり、薬学部は、実験棟の中が壊滅状態、試験も中止、連絡を待てとだけいってきた。どう帰れるか、帰り方を捜して、何とか帰る。」
 後でわかったことだが、神戸学院の学生や先生方にも犠牲になられた方が何人かいらっしゃった。下宿近くのJRで、線路の断裂があったり、明石・淡路島は、大きな被害を受けていた。それから、19日に帰ってくるまで、連絡の取り様が無く、気が気では無かった。車を持っていた和歌山に帰る友人に乗せてもらい、京都経由の国道九号線を他の友人を下ろしながら帰ってきたという。まだこれから和歌山へ帰る子もいて、どこかの駅からは、自力で帰ってきたという。何よりも我が子の無事が嬉しかったが、頼もしくも成長したものだと、感動する余裕も出てきた。
 その後、2月になって、少しずつ交通が繋がり始めると、学校に戻っていった。私も、何度か、食べ物や、日用品を持って、通ってやった。その往復に、見たこと、思ったことが、俳句となっていった。テレビの報道で見た避難生活の画像も焼き付き、題材となっている。JRは、分断されていたので、時期によっては、かなり被災地を歩き回った。車の道も、高速は復興が遅く、迂回して、地の道を走ることが多かった。伯父・伯母が住む伊丹へ行く道の河原は、被災したゴミの集積場になっていて、大変な状況であった。夙川など、きれいな川に人が水を求めて入り、洗い物をする光景もあった。寒い季節、焚き火をして、暖を取っていた。便利が消えて、一つ時代を押し戻された観があった。殺伐とした人の行き来で、みんなピリッと尖っていて、一触即発の気配が漂っていた。
 春になる頃には、JRが繋がり、神戸に、おっしゃれする人たちが戻ってきた様に思われた。電車の中に華やいだ色が感じられる様になったのだ。娘も、レポートに振り返られた試験で、進級できたと、嬉しい表情を見せる頃のことである。その頃には、私の友人達の中に、被災した家族を一時受け入れる家ができてきた。半年とか、一年、お世話したらしいが、神戸は、あまりに近く、関係する被災者が多かったのだ。
 
 
   阪神大震災 1995.1.17 未明のこと
                    より 抜粋
    醒まされて冬曙や震度四
    冬映す画面に一行地震あり
    大地震その隅なりき冬朝日
    重ね着や神戸遠しとリダイアル
    電話には一縷の気迫声冱てる
 
    冬ざれや電車を担ふ伊丹駅
    子午線に五時四六分冬晴るる
    声も無く逝きけり高き冬天に
    寒の月不倒と言える道路折れ
    生きてをり全壊の家セーターの赤
    縁辿り束の間借りし冬日
    ほろほろと完ペシャンコの町寒夜
    神戸無惨睦月の月を眺めをり
 
    火事跡に骨捜し当つ冬帽子
    荷を背負ひ行きかふ駅や風花し
    冬川原洗ふ物持ち降りて行き
    冬地震自然優しきものならず
 
    冬果つるシャンプー日毎なりし子等
    命ある良しとし艱苦風呂に入る
    薄紙や無事と一筆焼け野なり
    夜警して守るべきもの険しき眼
    今日のことまた今日のこと日脚伸ぶ
 
    酷寒やライフラインという響き
    都市の冬救済者かつ被災民
    ボランティア平常心と防寒着
 
    寒苦鳥死者累々と運び行く
     焚火する神戸の町の残骸で
 
    冴えにけり震災ショック癒えぬ我
    橋隔つ大阪日常花キャベツ
  
    階ひとつ消えゐしビルや冬の坂
    春待たむコーヒー店は再開し
    「やっと抜けて生きてをれたの」ぼたん雪
    主待ちペットは空ろ春の泥
    水仙は五千の霊にブーケとし
 
    難儀越え大人びて春再生す
    料峭や壊屋そっと立つ老婆
    貫通のJR神戸春の色
    淡雪や隠しきれずにゴミの山
    露地行けば斑雪積むヘルメット
    心根にしまひしものや春ショール
    梅の香や今日一日を遊ばなむ
    時移り朧満月昇りけり