70歳を過ぎた幼友達

70歳を過ぎた幼友達
        2018/12/18
        十河智

 ちょうどひと月ほど前、古くからの友人が紅葉を見に行きたいと電話してきた。ちょうど京都の八瀬へでもと思っていたときだったのだが、まだ八瀬の山道は台風の後始末が終わっていないようで電車が通っていなかった。車も八瀬へ乗り入れるのが、不安だった。それでこのときは、車で八瀬の入り口近く、洛北、高野の三宅八幡宮へ行った。
 この人は元来とても活動的なのだが、流石に今はバイクで行動する範囲を、距離制限しているという。それで、うちが車で出かけるとき誘ったり、こうしてむこうからもちかけてきたりする。
 高校の同窓だが、幼稚園も小学校も中学校も同じであった。長い人生、付かず離れず、たまに密になり、全く消息がわからなくもなり、そんな友人である。
今は大阪近郊の比較的近い所にに住んで、往き来している。
 保育園の保育士だった人で、旅の途中やちょっと出かけた場所で幼児に会うと必ず相手をしてやる。少し距離を置いた優しさ。この前の鞆の浦旅行で、渡し船で会った幼稚園児と、愉しそうに語らっていた。
 そして隣にいる私に懐かしそうに自分の過去を語り始める。そのような断片を繋ぎ合わせて彼女を知っているのだ。お互いに。
 こころが繋がっているか?それほどでもない。どちらも自分の思うがままに行動するタイプ。負担にならず、相性が良いのだと思う。彼女には信念があるようで、いくらすすめても絶対に携帯電話を持たない人である。連絡がとりにくい。しかし行動的で、私と違い、よくものを聞き、見知らぬ人とも、話ができる頼もしい人なのだ。
 その日は、生憎のどんよりとした雨の降りそうな日であった。長年の付き合いから、主人も知らぬ仲ではないので、運転手は主人。私たちの散策の間は、八瀬の入口のいつものホテルロビーの喫茶で、一休みしてくれるという。
 二人で紅葉を見つつ歩くつもりで、飲物とおにぎりを途中のコンビニで調達ということにしていたのだが、彼女が、おにぎりを用意してくれていた。そういう気の使い方をしてくれる。私はそれを受け入れる。それならと、コンビニではお茶だけ買って出発した。
 バス停があり、三宅八幡宮の七五三詣りの幟が並んでいたので、車を降りた。 参道を探したが、余所のお寺や路地のようで、入って行きにくかった。何回か来たことはあるがすぐ近くまで車で行ったので、距離感の狂いがあった。
 道行く人や散歩途中の座り込んでいた人に、聞いては進み、家の前で水やりをしている人にも尋ねつつ、ようやく吟行句会できたことのある景色に出会えた。平日なので、幟がはためいている割には、寂しい参道であり、社内であった。
 紅葉にはまだ早かった。休息所があったので、そこで彼女のおにぎりをいただいた。そこには、中学生らしき先客があったが、私たちが座り込むと、すぐに立ち去った。友人がこんな時間にと訝しがったが、多分試験中だったのではないかと、私は言った。たまに同じような二人連れのご婦人方や近所の人が、参拝のために通りすぎる。軽く会釈をしてくれる。
 神社の中を少し歩いた。紅葉している木も一、二本。がっかりだった。前にいいなと思った池と田んぼの方に回った。刈田の小路沿いに新しくフェンスが設けられていて、あれっと思った。鹿避け、猪避けかも知れない。これにもすこしがっかりした。
 「方向は間違っていないので、この道をいこう」そう私が言うと、彼女は偵察にでも行くように、先に曲がり角まで走った。いなか山道はすぐに終わり、整備された住宅街になった。途中、視界が開け、今山に入る前に歩いたバスの通りが確認できた。バス停まで戻って、時刻表を見たが、バスは少ない。一停留所分なので、歩くことにした。「今日は、歩くことを楽しもう。」彼女がペースを合わせてくれると言ってくれたので。
 私も、ゆっくりでもこうして歩くようにしていると、前より少し歩調が軽く感じられるのだ。
 緩い坂道をゆっくりとホテルの方へ歩いた。ナビや地図を持つ観光の人がときどき行き違う。二組ほどに聞かれたのだが、目にしていた標識や案内板は教えてあげることができた。ほかにも観るべきお寺やお社があるようだった。そのうちに少しぱらつき出した雨。傘を差すほどでもなかった。
 30分ほど歩き、ホテルで主人と合流した。昼食をして、本を読んで、彼は彼の時間があったようだ。
 こうして連れ合いながら、それぞれの時間を持つ、あんまりおかしいこととは感じていない。彼が山へ好きな五重塔を見に行く時、私は麓でよく待って時間を潰す。体力と興味の違いを乗り越えて、一緒に出掛けるための工夫ともいえる。無理をして、いつも同じ行動を取ろうとすれば、出掛けられなくなってくる。
 帰る前に、どうせドライブだからと、大原野まで行って引き返すことにした。あまり来る機会がない友人に、台風の後の倒木と、大原野の冬菜畑を見せたいと思って。
 大原の畑は、今の時期、葉っぱが濃い緑で埋め尽くしていた。友とゲームのように、あれは何、これは何、と当てっこになっていた。70を過ぎた幼な友達。
 大原の里の駅まで行き、Uターンして戻った。うちに着いたときは、五時で、もう暗かった。彼女は、バイクで帰って行った。
 母の最後の頃のことを思い出している。
 母には、お互いの結婚後に、高松の空襲跡の焼野原で再会した女学校時代の友人がいた。家も近所で、夕方、私がそこへ探しに行くほど、話し込むこともある人であったが、母が晩年少し遠くへ引っ越しをし、直後に骨折により足を悪くした。店番の友達のところへ、母が尋ねるというパターンが不可能となり、多分それ以来会っていない。母の時代の女友達は、だれかの奥さんであり、お母さん。電話番号も名刺もかわすことはない。移動手段を失えばそれで終わりの付き合いだった。
 それを思えば、この友人とのつきあいは長く濃いかも知れない。


入口を訊ねつついく紅葉の社
噴水の一筋哀し冬ざるる
日当たりのただ一本の紅葉ぢたり
冬社参拝者たま拍手たま
七五三参りの旗の列ぶのみ
枯木道幼な友達とて七十
夕時雨傘はそのまま杖として
大原野畑に冬菜びつしりと
あつあれは聖護院だいこんの葉と
暮早し友はバイクに家路へと