荒木かず枝さんの句集、「真 MAHANI 埴」を、読みました。

荒木かず枝さんの句集、「真 MAHANI 埴」を、読みました。
       2018/10/03
       十河智

 FBお友だち、荒木かず枝さんの句集、「真 MAHANI 埴」を、読みました。
 俳句がご縁で、お友だちになったと思うのだが、ネットには俳句を出さない方なので、この句集で、初めてかず枝さんの俳句に接する、のだと、思っていた。 FBの投稿で、吟行される様子を拝見していて、町の人でありながら、自然人のところもおありの方だなとも、思っていた。どんな句を作られるのか、全く想像できずにいた。句集を贈ってくださると言ってくださって、それから来るのが楽しみでワクワクしていた。
 実は、遠い昔、私も「鷹」に投稿していた。荒木かず枝さんで、立て続けに三人の「鷹」の方の句集を読ませていただくことになり、今手元に残してある、ただ二冊だけの「鷹」を懐かしくみていた。何となく、荒木かず枝さんのお名前を探していた。この句集に収載されている句をそこで見つけて、さらに縁というものを感じている。
1999年7月号(35周年記念号)には、二句。
 雁帰る湖は北より荒れにけり
 春の鴨母亡きあとの湖北かな

2000年10月号(飯島晴子特集)には、次の二句。
 星祭大河都会を貫流
 根付きたる茄子苗兄の喪の明けし 

 宮木登美江さんの跋に、荒木かず枝さんの吟行への意欲と関心の有り様が述べられている。同行した人だからこそ知る作句の過程、貪欲ささへ感じる、見たい、観たい、視たい。それがまともに俳句の力となって、言葉を掴み取っている。
 所属結社「鷹」で、藤田湘子は「体験と空想が渾然となって、昇華した一句と思う」と荒木さんの句を評したと、小川軽舟さんが、序で、触れておられる。ご自身も、「奈良に住んでいると、千何百年の前の事もほんの身近な事に感じられるようになった」と書いておられるという。実際に、俳句に現れる気迫は、荒木さんが時代を越えて、私たち読むものを、その場面に誘ってくれる。荒木さんの想像や空想に端を発していたとしても、そこに留まることはない。軽舟さんの表現をお借りすると、荒木さんは
「もともと歩き回って句材を得る作者」
「地べたの下に歴史が積み重なった奈良を巡ることで、湘子のいう体験と空想が混然となった作風に足を踏み入れた」
「荒木さんの興味と取材の及ぶ範囲は広い」
 句集を読み進むと、この軽舟さんの言葉の意味が本当によくわかる。
 句集名「真埴」は、軽舟さんが贈られたという。
 鹿鳴くや埴に濁れる水たまり
 ことさら想像力を交えず、目に見えるもの、耳に聞こえるものをそのまま詠んでいる、この句に寄せて、句集名を取り、これからの荒木さんの作品世界を揺るぎないものにと期待を寄せておられる。
 句集には、ぐっと日本人の根元に入るような迫力を感じる句があり、軽舟さんの句集名が大きな意味を持っていると思う。
 何事にも興味をもって、恐がらず、立ち向かう勇敢な荒木さんが、大好きになった。
 前に、中沢新一さんと小澤實さんの対談集「俳句の海に潜る」を読んだ。そこに、「俳句はアースダイバーの文芸」という記述があり、中沢新一さんの次の言葉があった。
 「僕らの意識は日本語で形成されている。日本語に対応する現実は、いわば表層的地層の現実に対応するようなもので、この言語を喋り続けていると地層の下が見えなくなる。芸術は、特に俳句は日本語を語りながら、その日本語の中では見えなくなってしまう地層を掘り返し、発見し、掘り出して、表へ出す。そのために言語を変形する行為じゃないのでしょうか。
 なぜ、俳句がアースダイバーかというと、日本語を使いながら、地層表面にあるものとは別の地層に隠れているものを露出させる行為だから、それはある意味、見つけることであり、発見することにつながっていくんじゃないですか。」
 荒木かず枝さんの、この句集を読んでいくとき、中沢新一さんのこの言葉が思い出された。荒木かず枝さんこそ、アースダイバーなのではないかと。

 私という読み手の体験と想像が加味されていて、作者の意図から離れていくかもしれないが、一句鑑賞を感銘句に添える。

日の射して鯉の上いく水馬
興福寺の前の猿沢池、私は歩き疲れると、その縁に座り込み時間を潰す。午後にはよく日の当たるところである。日が射すと、水馬が本当によく動くのが見える。この池で鯉のことはあまり思い出さない。]

眠るため湖北に来たり春の雪
[湖北はまだ雪解け途中である。春でも雪が降る頃、人はまばらで、ゆったりと過ごせる。来てみれば、夜ぐっすりと眠れたということであろうが、一気に、眠るため、と言いきる。切ない旅の背景を思ってしまう。]

生身魂山の谺を遊びをり
奈良県には高い山、深い谷が連続し、谺のよく発生するスポットなどもある。登りつつ、下りつつ、ここはどうかなと、声を出してみる。「ヤッホー」句の中では生身魂と敬われるご老人が、そんなスポットをよく知っていて、遊ぶ様が描かれる。]

手鞠唄夕暮の辻おそろしき
[夕暮の辻というのは、子供に事件が起こりやすいところだ。交通事故や、誘拐、そんな事件の犠牲になった子供が唄う手鞠唄が聞こえる。]

瑕疵なき空砕氷船の進みけり
[どこまでも青い空を、瑕疵なき空といい、地球の海の氷に入る罅割れを対比させている。人は飽くなき追究を続けているとも取れるし、地球を壊し続けているとも取れる。]

形代の水の凹みにのまれけり
[形代を川に流すとき、人は、かなり永く後を追っているものである。「水の凹み」という表現には、弛い流れと、暫しの時間の経過、しかし最後には、淀みの渦にのみ込まれる様子が見える。]

裕明忌冬野の夕日笑むごとし 
[裕明さんの笑顔と冬野の夕日が二重写しの感慨深い一句である。]

銀漢や向かひ合せに坐る旅
[よくある座席をひっくり返して座る親しい仲間うちの旅と思われるのだが、田舎のローカル線の固定された四人席のようでもある。「銀漢や」という季語が、夜の静寂を思い起こさせる。思い立って、どこかへ吟行されたのだろうか。一人のとき、連れがあるとき、場合によって、読み手の想像によって、「向かひ合せに」の持つ意味合いが微妙に変わる。面白いと思った。]

卯波立つむかう韓国烏賊を干す
[海の国境では、今、色々の事が起きている。漁場争いも現実である。烏賊を干す、この一言で、句を得た土地の状況が見えてくる。]

冬草や船に積む牛一列に
[一読したとき、ドナドナという歌を思い出した。ただ、この句に、あの歌のような情感はない。牛は商品と化してい
る。生きている一頭一頭から、牛一列という品物の量に、冬草を仲介にして変化している。]

鹿鳴くや埴に濁れる水たまり
[句集の「真埴」という名を得た句、土地の色、奈良の歴史総てが、鹿と埴とに象徴的である。]

その他の好きな句を挙げる

畝傍山化現の鹿の鳴きにけり
花衣脱ぐ憑きものの落ちにけり
満月や鏡の奥に刃物あり
宿題の済みて兎を抱く時間
足袋脱ぐをざしきわらしに見られしや
すずなすずしろ大黒の子だくさん
師の墓や宗祇の墓や木の実降る
竹婦人窓打つ白蛾よもすがら
虹消えて素頓狂に孔雀鳴く
狐火や姉と記憶の食ひ違ふ
雛まつり寄生木に空真青なる
暖流にイルカ乗り来る端午かな
室の花人死んで部屋空きにけり
障子貼るかたはら猫の通りけり
久延毘古を抜き口笛のごとき風