「セレクション俳人」叢書より「対馬康子集」「四ッ谷龍集」を読みました。
「セレクション俳人」叢書より、「対馬康子集」「四ッ谷龍集」を読みました。
2018/08/23
十河智
邑書林で買う本があって、サイトを見ていたとき、セレクション俳人という叢書があり、興味深い俳人たちの名前が並んでいた。そのつもりはなかったのだが、「対馬康子集」「四ッ谷龍集」を注文していた。
四ッ谷龍さんは、師系に繋がる方で、参加する句会の選をしてくださっているお一人であるが、作品にきちんと向かい合ったことはなかった。
対馬康子さんは、俳句雑誌等で、お見掛けする俳人ではあったが、詳しく知らない人であった。ただ、いつもは行かない出身高校の東京開催の全学年同窓会に出席して、その会報から、彼女が少し年下の後輩で、同窓会の東京支部には、ゆかりの俳句会まであることを知った。そんなときに、この本に出会った。
この二冊、表紙の写真が、それぞれの俳人の句柄を象徴している気がする。
四ッ谷龍さんの表紙写真は、手術用のメス、それも形の違う三本が並べてある。
対馬康子さんのそれは、煌めく宝石の原石。
お二方の句を読んだ後では、実にうまく選んだ表紙写真であると、「セレクション俳人」という叢書を、改めて、見直した。いつか、この叢書で、他の方々にも接してみたい、そう思ったのである。
**********
「セレクション俳人」
22 四ッ谷龍集より
十句
十三夜線路いきなり光だす
姫女苑・姫女苑・姫女苑手の火傷あり
桐一葉着物はたいて通るから
掃除機の音風に乗る菊根分
レントゲン技師六月に来て僕を殴る
ぶどうパンぶどうまっ黒古事記読む
白い広い天井を憶良へ捧げ
0分0秒鴉の翼ゆらめきぬ
風は死体糸瓜揺らしてばかりいる
降る雨のだんだん急に梅残花
四ッ谷龍
和田悟朗の評論の一節、「四ッ谷龍は人生の疑念を絶たず、真摯に執拗にこの世の悩みを抱いていることだ。だからつねに苦しげであり悲しげなのである。ペシミストである。」という言葉と、四ッ谷龍夫人、冬野虹の姫女苑の句の鑑賞が、心に残った。
**********
「セレクション俳人」
13 対馬康子集より
気になる句を挙げる。
一
第一句集『愛国』より
遠景はいつも幼年いわし雲
シャガールの鳥ひそみける沼枯れに
兄嫁という真白きもの花の時
モナリザの背にある道も晩秋に
ハンカチでおおうに足りてわが子抱く
海は国境少年の凧あがる
鯨鳴く水族館を出て小雪
霧まみれ無数無名の白い墓
産終えて日向のようにあるスープ
国二つ少女は持ちて麦は穂に
対馬康子
この句集は、若いとき、故郷を進学とともに出て、結婚、出産、と同時期に、夫についての海外生活。句の中に、ふっと溢れる幸福感や不安感、ああ、私も同じ道を来たなあとの共感があった。海外生活の特別な景色と思いも、案外と素朴な表現が為されていて、異邦人として、見たままに感動や困惑を句にした感じがあった。
二
第二句集『純情』
全裸なり波ひたひたと寄る術後
狂気満つ亀冬眠の前ぶれに
冬暮るる佐渡より他に何もなし
国の名は大白鳥と答えけり
卯波うつくし透明の電話ボックス
焼かれゆく身の全長の天の川
自販機のボタンの一つ売る銀河
つなぐ手のほどけて駆けて夏帽子
大花火水だけ宙にゆれるとき
桜散るパントマイムの見えぬ壁
対馬康子
この句集になると、句が、俄然、対馬康子の感性として、様々に光を、エネルギーを放ち始める。構成する要素としての言葉の意味は易しく、わかるものばかりだが、一つの句として、読み仰せた後に、残るものは意味でもなく、景でもなかった様に思う。
言葉の運びは明確でかつ冷静である。脳裡にある物思いのほんの欠片を、的確に、引き寄せるように、俳句の定型の上に乗せて見せている。たとえば御告げのように、たとえば、詩の一部のように、読み手が、そこで放り出すことのない、全体像を探す迷路へ導き入れる、あるときはかなり強烈な、そしてあるときはとても幽かな、エネルギーをを発している気がする。言葉の上で意味がわかる句でさえも、意味をいつまでも追求することの無意味を思ってしまう。この句たちの言葉の流れ、韻律にただ乗ることが、次の高いエネルギー状態に、自分を持ち上げてくれるような気持ちの高揚もある。不思議な俳句の句集である。
三
「吾亦紅」
雪解野の終りや切れし千羽鶴
地下道に死の蝶軽きまま流る
みどり子に思い出はなし去年の虹
青林檎かじる氷河期のおわり
ただ生きて帰って欲しきときの雪
レモン吸う難民家族聖家族
雲の囲の瀬戸全景を壊しけり
叱責の子を星空に連れてゆく
秋うらら報の一つに名馬死す
銀杏散る女郎二万を一墓石
対馬康子
第二句集『純情』での傾向は、『愛国』『純情』拾遺と添え書きされた句集「吾亦紅」に納めらた句で、もっともっと強く現れる。 17音の俳句になった言葉の分子が、単位原子の繋がりのなかで、韻律を形成し、意味も含めた本質的な何かの核、発信源として、ここにある。
読んで分からなかったでは終わらず、心に塊として落ち込んでくる。こんなに働きかける俳句に出会ったことはなかったし、近寄りがたい才能だと思った。
2018/08/23
十河智
邑書林で買う本があって、サイトを見ていたとき、セレクション俳人という叢書があり、興味深い俳人たちの名前が並んでいた。そのつもりはなかったのだが、「対馬康子集」「四ッ谷龍集」を注文していた。
四ッ谷龍さんは、師系に繋がる方で、参加する句会の選をしてくださっているお一人であるが、作品にきちんと向かい合ったことはなかった。
対馬康子さんは、俳句雑誌等で、お見掛けする俳人ではあったが、詳しく知らない人であった。ただ、いつもは行かない出身高校の東京開催の全学年同窓会に出席して、その会報から、彼女が少し年下の後輩で、同窓会の東京支部には、ゆかりの俳句会まであることを知った。そんなときに、この本に出会った。
この二冊、表紙の写真が、それぞれの俳人の句柄を象徴している気がする。
四ッ谷龍さんの表紙写真は、手術用のメス、それも形の違う三本が並べてある。
対馬康子さんのそれは、煌めく宝石の原石。
お二方の句を読んだ後では、実にうまく選んだ表紙写真であると、「セレクション俳人」という叢書を、改めて、見直した。いつか、この叢書で、他の方々にも接してみたい、そう思ったのである。
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「セレクション俳人」
22 四ッ谷龍集より
十句
十三夜線路いきなり光だす
姫女苑・姫女苑・姫女苑手の火傷あり
桐一葉着物はたいて通るから
掃除機の音風に乗る菊根分
レントゲン技師六月に来て僕を殴る
ぶどうパンぶどうまっ黒古事記読む
白い広い天井を憶良へ捧げ
0分0秒鴉の翼ゆらめきぬ
風は死体糸瓜揺らしてばかりいる
降る雨のだんだん急に梅残花
四ッ谷龍
和田悟朗の評論の一節、「四ッ谷龍は人生の疑念を絶たず、真摯に執拗にこの世の悩みを抱いていることだ。だからつねに苦しげであり悲しげなのである。ペシミストである。」という言葉と、四ッ谷龍夫人、冬野虹の姫女苑の句の鑑賞が、心に残った。
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「セレクション俳人」
13 対馬康子集より
気になる句を挙げる。
一
第一句集『愛国』より
遠景はいつも幼年いわし雲
シャガールの鳥ひそみける沼枯れに
兄嫁という真白きもの花の時
モナリザの背にある道も晩秋に
ハンカチでおおうに足りてわが子抱く
海は国境少年の凧あがる
鯨鳴く水族館を出て小雪
霧まみれ無数無名の白い墓
産終えて日向のようにあるスープ
国二つ少女は持ちて麦は穂に
対馬康子
この句集は、若いとき、故郷を進学とともに出て、結婚、出産、と同時期に、夫についての海外生活。句の中に、ふっと溢れる幸福感や不安感、ああ、私も同じ道を来たなあとの共感があった。海外生活の特別な景色と思いも、案外と素朴な表現が為されていて、異邦人として、見たままに感動や困惑を句にした感じがあった。
二
第二句集『純情』
全裸なり波ひたひたと寄る術後
狂気満つ亀冬眠の前ぶれに
冬暮るる佐渡より他に何もなし
国の名は大白鳥と答えけり
卯波うつくし透明の電話ボックス
焼かれゆく身の全長の天の川
自販機のボタンの一つ売る銀河
つなぐ手のほどけて駆けて夏帽子
大花火水だけ宙にゆれるとき
桜散るパントマイムの見えぬ壁
対馬康子
この句集になると、句が、俄然、対馬康子の感性として、様々に光を、エネルギーを放ち始める。構成する要素としての言葉の意味は易しく、わかるものばかりだが、一つの句として、読み仰せた後に、残るものは意味でもなく、景でもなかった様に思う。
言葉の運びは明確でかつ冷静である。脳裡にある物思いのほんの欠片を、的確に、引き寄せるように、俳句の定型の上に乗せて見せている。たとえば御告げのように、たとえば、詩の一部のように、読み手が、そこで放り出すことのない、全体像を探す迷路へ導き入れる、あるときはかなり強烈な、そしてあるときはとても幽かな、エネルギーをを発している気がする。言葉の上で意味がわかる句でさえも、意味をいつまでも追求することの無意味を思ってしまう。この句たちの言葉の流れ、韻律にただ乗ることが、次の高いエネルギー状態に、自分を持ち上げてくれるような気持ちの高揚もある。不思議な俳句の句集である。
三
「吾亦紅」
雪解野の終りや切れし千羽鶴
地下道に死の蝶軽きまま流る
みどり子に思い出はなし去年の虹
青林檎かじる氷河期のおわり
ただ生きて帰って欲しきときの雪
レモン吸う難民家族聖家族
雲の囲の瀬戸全景を壊しけり
叱責の子を星空に連れてゆく
秋うらら報の一つに名馬死す
銀杏散る女郎二万を一墓石
対馬康子
第二句集『純情』での傾向は、『愛国』『純情』拾遺と添え書きされた句集「吾亦紅」に納めらた句で、もっともっと強く現れる。 17音の俳句になった言葉の分子が、単位原子の繋がりのなかで、韻律を形成し、意味も含めた本質的な何かの核、発信源として、ここにある。
読んで分からなかったでは終わらず、心に塊として落ち込んでくる。こんなに働きかける俳句に出会ったことはなかったし、近寄りがたい才能だと思った。