岸本尚毅・宇井十間 「往復書簡 相互批評の試み」ふらんす堂、を読む

岸本尚毅・宇井十間
「往復書簡 相互批評の試み」ふらんす堂、を読む
       2018/08/02
       十河智

 向こうからやって来た本であった。句会の選をお願いしている岸本尚毅さんの著書なので、お世話してくださる方が、手配してくれて届いた本である。
 対談ではなく、往復書簡という形、
A→B、B→Aの書簡の往復をテーマごとに繰り返す。ある意味一方的な書簡という形は、もっと回数を重ねないと煮詰まらない、という読後の感想ではあった。

 しかし、俳句に今起きている現代的な課題、話題が次々に取り上げれていて、刺激を受けた。考えさせてくれた。

 人の句を読み、楽しむことが、俳句の面白さと常々思っている私には、「鑑賞する」という認識はあっても、「批評する」ことは、あまりない。
 俳句には、多くの流派的な主義主張があって、それぞれに、一派を為して、立っている。そんな世界には、あまり関係しないところで、ほぼ結社にも属さず、好きに読んで鑑賞している私なのだが、俳句か、そうでないかは、直感的に判断しているように思う。それは、誰に教わったわけでもなく、極めて個人的見解なのだが。
 その私の俳句の範囲の中で、汲み取る何かに、ハッとするものを感じたときに、「いただきます。」という。共感、発見、意外、驚嘆、いただく時の動機は、色々である、まあ言えば、こういうことでしょうというくらいのことである。逆に、作った俳句が、句会などで、選を受けることもある。俳句仲間からの共感はとても嬉しく思う。
 
 本論に入ろう。ここからはお二人を宇井さん、尚毅さんとお呼びする。

[俳句の即物性について]

A→B

 宇井さんの呼び掛けから始まった往復書簡、私もよく知る金子兜太のこの句から始まった。

二十のテレビにスタートダッシュの黒人ばかり 金子兜太

 兜太が示す「物」によって、ある種の違和感が持ち上がり、揺さぶりを掛ける。動揺を起こさせる。兜太は、俳句において、内面性の表現は、可能なのだろうか、と、句業の全体を貫き問いかけていると考えられる。「客観写生」という俳句の方法によって、「心」をどう写生することができるかという質問について、兜太の作品を読みつつ考えることが可能だが、どの様にお返事いただけるものか楽しみです、と結ばれている。

 尚毅さんの返事は、兜太の句について深い考察のもとに、解釈が唯一ではなく、「異様なデフォルメ」「本質的な違和感」「現代的な虚無感」には同感するが、気持ちを切りかえると景気がよくて賑やか、笑い出したくなるような句とも思える。この句は、読み手によって解釈や感じ方が違ってよい句、「この句はこういうことだろう」と思っても、もしかするとそうでもないかも知れない、と思わせる句です。こう言っています。兜太の句には、「彎曲し火傷し爆心地のマラソン」のように一句の言葉が全て〈爆心地〉という主題に奉仕、解が一様に決まる方程式のようなものもあるとあげている。
 人間の「内面」は、複雑、不可解、理不尽。人間の運命も、人間の存在それ事態も不条理。それを簡単にまとめてしまうことを兜太は警戒して、敢えて説明もない、ただモノを突きだすだけ、という行き方を選んだのではないか。意味以前のモノの提示は読み手による安易な意味付けを拒否するとまでいう。  

B→A

 國の喪や身にマツワリテ蝿ひとつ

この句で、兜太は、「『蝿』、社会状況というか、そういうもの」という池田澄子に、「蝿」に意味をつけようとせず、「蝿が止まってうっとうしいなあ、という感じ」 で読めという。兜太は、俳句に内面の表出を求めてはいたが、「蝿=社会状況」という図式で句の含意を統括してしまうことには抵抗感があった。兜太は、俳句が図式化し観念化することに警戒心が強い。そうならないように「モノ」を全面に押し立てる。兜太の「即物性」はそこ。
尚毅さんは、韜晦(自分の本心や才能・地位などを包み隠すこと、身を隠すこと、姿をくらますこと)というキーワードを使っている。あけすけに内面を語るのはやぼったい、モノに寄せて語る、モノを書くだけで何も語らないところに俳句の俳句らしさがある。金子兜太は、究めて俳句的メンタリティの俳人だという。

 宇井さんの返信では、尚毅さんの論に理解を示しながらも、気になることとして二点言及している。
 一つは、韜晦なり、即物性なりを追究しすぎると、俳句の表現の土壌がどんどん痩せていってしまう恐れがあるのではないかということ。
 もう一つは、モノ、ここでは蝿、に対する我々の感覚を可能にしているのは、一体何なんだろうかという問題。使われる場面にある「蝿」は、厳密な意味での事物ではなく、特定の意味付けをなされた蝿であること。それは、どんなところに使われていても、何らかの意味を読み込んでおり、単なる蝿かそうでないかの感覚は、我々の日常性に照らしてよりしっくりくるかの違いにすぎない。なじみ深い感覚かどうかだけのことであり、「韜晦」という美学は、そのようななじみ深さを肯定する美学といったら言い過ぎだろうか。兜太は、すべてとは言わないが、一茶の「蝿」のように、固定的な共通感覚をやんわりと否定しながら、一茶自身の自画像に転換してみせるという、アイロニーの手法をよく用いている。兜太の多面性の重要な一面であると思う。

 このように、テーマに即した往復書簡で、それぞれの視点の違いが浮き彫りにされている。これは、現在の俳句の世界の現状であり、この本の読者、つまりわたしが、どの視点に共感するか、はたまた全く別のことを思うか、立ち止まって、俳句について考えさせてくれる。
 尚毅さんはいう。読者が「宇井と岸本はあんなことを書いているが自分ならこう考える。」と思ったとすれば、本連載は十分に有益だったと思う。
 この言の予想通り、私は、考えさせられているのだ。

その他のテーマをあげておく。

 〔日常性について〕
 〔重くれと軽み〕
 〔多言語化する俳句〕
 〔叙情と劇の間〕
 〔一様性から多様性へ〕

どのテーマも二回の往復書簡で構成されており、それぞれに、現在の俳句世界で大きな議論を巻き起こしている問題である。例句を通して、具体的に論じられていて、とても面白い。存じ上げない宇井さんよりは、尚毅さんに、同調する私は致し方ないが、宇井さんの考え方が、私の俳句観をより深くしてくれた。私も大好きな兜太や耕衣、テーマに沿った代表的俳句作家の世界を、普段とは違う形で、アプローチしていて、視界が拡げられた気もした。作家像だけでなく、ここには書簡のなかに取り上げられるという、具体的な読者像も見えるからである。

〔多言語化する俳句〕
     付、私の英語俳句

 このテーマは、特に興味を覚えた。私自身のもつテーマそのものであるからである。このテーマについて、お二人の書かれる内容を踏まえた上で、少し私の意見を述べておきたい。
 ここには、既にある俳句を訳すことで、そのすべての情緒を伝達可能か、外国の人が俳句というジャンルに踏み込めるかの視点の意見が主に述べられています。
 ゴッホにおける浮世絵のことを思い出しています。俳句に深く共鳴して、詩作するスェーデンの詩人のこと、伝統も含め、私たち日本人のなかに蓄積された過去の記憶の集積ともいえる俳句観と、数十カ国語で書かれる国際俳句の書き手たちのもつ情緒とのギャップ。違う社会状況のなかで、俳句の即物性が、むしろ発想の自由を制限するかもしれない。宇井さんのこのような指摘は、俳句を英語で実作するものとして、読み手に伝わるだろうかと常に危惧の念を抱きつつ、しかし俳句を作らなくては、と考えている私も常々感じているところなのです。尚毅さんは、訳の立場から、多言語化に相性がよい俳句とそうでない俳句、という風にいっておられます。
 私の英語俳句、実作においては、日本語と英語を並べはしますが、日本語は日本語で作り、英語は、わかる限りの英語圏の風景、日常に溶け込むような英語の俳句を作るように心がけるようになったのですが、それはごく最近のことです。私の英語俳句にもそれなりの歴史があります。
 日本語も英語も言語として好きでした。それなりに読み書きはできました。俳句を始めた最初は、そばにいる外国人に、自分の俳句を訳して伝えることでした。相手もかなり日本語がわかるので、意味を伝えるのが目的、英語俳句とは言えません。大阪の河巡りの水上バスに友人の留学生と乗ったとき、作った俳句に訳をつけて手渡しましたが、色々やっています。説明文になったり、三行だったり、二行だったり。

 花衣湊町より舟にのる
Dressed for cherry-blossom viewing,
boarding on a boat for cherry-blossom viewing
and departing from Minatomachi-port

 花見など知らぬと若き街灯り
Indifferences toward blossoms were among the young,
the town was lighted brightly like in another world

 大川に入りて桜を満喫す
Going on Okawa River,
Enjoyed to the full,
Cherry blossoms at their best

 春の雨まあるき大阪ドームかな
Spring rain falls the Big Round Osaka Dome

 もう少し後のこと、アメリカ西海岸への旅行では、英語で俳句を書きたい気分になりました。一部分をあげさせてもらいます。

 夏霧やサンフランシスコに住めさうな
Summery mist over the bay:
San Francisco;
The faborable city to live

 照り霞む日本のどこかの町に似る
Shiny and dim,
even wet: this town has
similarity to some in Japan

 底抜けに天地明るき黴生えず
This land and sky is 
bright to the core:
kept from going moldy

 旅人かガイドか青葉似て非なる
Chalk and cheese;
Guide and tourist:
Greenness of the two countries

 パセリ・セージ公衆電話の使用法
Parsley, Sage in a flower pot;
How to use a public telefhone

 下闇や栗鼠の野生に隣合ふ
in the shade of green leaves,
took a seat next to the wildness:
Squirrels in Yosemite

 緑陰やカリフォルニア産幕の内
under the shade of trees,
rice balls, a broiled salmon:
a box lunch made in California

 バス楽しアプリコットはみずみずし
Merry chat
Juicy apricot
In the bus

英語での臨場感は、増しているように思われて、楽しい作句でした。
 これとよくにた発想は、題材のもとが外国の時に起こります。ビートルズの特集番組を大晦日に見たときのものもいれます。

John Lennon
ジョン レノン

Unwatched the usual program "Ko-Haku"
on New Year's Eve,
I watched "Beatles' anthology", insteasd
 紅白は見ず大年のビートルズ

Seeing the old year out,
John Lennon is speaking on television
in his young voice
 年惜しむ若き声してジョンレノン

This year is departing
This unrerecordable music-tape of Lennon
I listen through the night
 爪折りしレノンのテープ去年今年

'Twas an old diary
The Four spoke about themselves,
and made many good tunes
 古日記四人の語り歌ふかな

The three in a withered field
sing a song in unison
with a bird in the sky
 枯野人虚空の鳥に呼応して

 まだまだ三行にこだわり、英語はこなれず、やはり外国語なのだと難しさを感じつつ、英語で俳句を作り続けていました。
 ネットで見つけた、国際俳句を目指すサイトで、二行で切れを感じさせ、KIGO をいれるという様式を提唱しているのに出会いました。いいかもしれない、これだ、と思いました。その投稿作品をあげます。

春の山南アルプスそして富士
spring mountains;
the Japan Southern Alps and Mt.Fuji

春の山ただ伸び伸びと晴晴と
spring mountains;
simply feel relieved in a relaxed manner

マリリスしつかり仕事する女性
amaryllis;
a strong-willed woman of a career

紫陽花を通り抜けたる濡れ衣
clothes wet;
after walking in hydrangeas

紫陽花や人いきれさへ鎮もりぬ
even a stuffiness of crowds are settled;
hydrangeas garden

睡蓮や浮世の闇を抜けて咲く
water lily;
Bloom out of the darkness of the world

睡蓮やモネを模したる池多し
water lily;
many ponds copied the one in Monet's painting

四囲が海プールで泳ぐ日本人
Japan is surrounded by the sea;
Japanese swim in a pool

プールサイド若き体育教師かな
swimming class at a pool;
a young P.E. teacher on the poolside

ワールドカップ日本敗退昼寝する
Japan was eliminated from the Soccer World Cup;
afternoon nap

谺よくするところ郭公も啼く
the point echos well;
cuckoo is singing

かつこうや美濃と尾張の国境
cockoo;
at the boundary between Mino and Owari

杏畑バスで行きけりカリフォルニア
going on a bus through the apricot orchards;
California

かぶりつく杏は甘く信濃かな
an sweet apricot bitten into;
being in Shinano

 俳句を作りたいと思う外国の人もたくさんいる時代になりました。昔、日本人にほんとのクラシック演奏、バッハやモーツアルトが弾けるか、と揶揄されていたことの逆ではいけないのです。俳句を俳句らしく、国際化する努力は、双方向に求められます。その努力とはなにか、英語での作句で考え続けたいと思っています。