中沢新一さんと小澤實さんの対談集「俳句の海に潜る」

中沢新一さんと小澤實さんの対談集「俳句の海に潜る」
     2018/05/04
     十河智

 かなり長い時間をかけて、読みきりました。
 小澤實さんの来られるあるイベントで、
 「俳句の海に潜る」
 「俳句はアースダイバーの文芸」

 この本のカバーの、このキャッチフレーズ、掴みきることができなくて、なにか気にかかり、本を買い、読み始めました。
 中沢さんが「はじめに」で述べている。小澤さんが、中沢さんの「アースダイバー」という著書を愛読、そこに、現代俳句にとってきわめて重要な視点がちりばめられていると感じて、NHK 俳句に招いたことから、お二人の対談が始まり、中沢さんの俳句について考え続けていたことが、小澤さんを相手に語られ始めたとある。共に旅をし、フィールドワークをし、小澤さんと対談をすることにより、中沢さんの俳句に関する思考に言葉が与えられたという。この本はその対話の記録です。
 
 人類の始めから現代の都市生活まで、自然と人間、自然を見る人間の立ち位置を、検証し論じている。旧人にも言葉はあったが、対象の記号化に過ぎず、私たち新人が得たという、比喩、これによって詩情が生まれてきたという。人が自然のなかで生きている、自然がその姿を現すなかで、生活を構築したり、壊されたりしながら、人は暮らしている。歴史、気象、災害、都市生活、そこから生まれる詩、表現、芸術。俳句。中沢さんは、「俳句は第一級の芸術」と言い切るのだ。


[以下に、俳句についての対談、この本の第一章をかなり詳しく要約しておきたいと思います。]

第一章 自然認識としての俳句

*人間の目で見ない

〈中沢〉人間と動植物の関係性で見ていく、動植物の目になって世界を認識するというルール、これが、俳句の季語を立てる、動植物と気象を立てて、それを季語にして詠むという芸術、俳句のルールである
〈小澤〉世界は人間のためだけにあるのではないと歳時記は示す。

 
*和歌と俳句

〈中沢〉和歌は歌詠み、職人が詠む。天皇がその頂点。和歌は基本的に優美な文明に組み込んで行く。マイルドなかたちに自然を組み込んで行くことによって制圧するということが、和歌の基本だが、俳句はそれを否定した。
〈小澤〉和歌の題は優美な美意識によって限られたものですが、俳句の題は限りなく広がる。庶民的なものまで取り込んでいく。
〈中沢〉庶民的で、農民の世界にもすごく興味を持ち、その世界をそのまま言語化しようとしている。その態度の違いは、一種の権力論の問題として大きいと思う。
 和歌は文明の側が自然の優美な言語に組み替えて制圧する権力だったけれど、俳句というのは、権力から見ると周縁にいる農民とか庶民の感覚というものを立てた。植物をいじり、土をいじり、動物をいじっている。このいじっている人の立場に立つということは、なかなか革命的だったと思う。
〈小澤〉そうだったんですね。
〈中沢〉西日本で発達した権力と一体になった芸術とは違うものを芭蕉は作ろうとしていたんじゃないか。
〈小澤〉芭蕉が東北へ進んだ意味がよく分かってきました。天皇の芸術である和歌とは異なるものを打ち立てたかった。言葉も、和歌は限られた大和言葉しか使えなかった。俳諧は漢語・外来語・俗語すべての言葉が使えます。すべての言葉を使って世界のすべてを詠むものだと思います。


*俳句は記号を破る

〈中沢〉俳句での最悪の評価「月並」、記号的。あるリアリティがあって、それが発している意味が単純なものに決まってくる時、記号化する。
〈小澤〉季語の含んでいる本意から出られないということ。
〈中沢〉「月並を破る」ということは、呼号化したものの定型を破っていかないといけない。自然を記号にしていくという実践の動きそのものを愛でるのが和歌の本性で、それを破っていく行為として俳句があるんじゃないだろうか。その意味で、俳句は現代的でアヴァンギャルド、二十世紀芸術の主題と同じ
〈小澤〉言葉がそのまま触れることのできる「もの」になるみたいなところを目指す。
〈中沢〉「鳥が降下していく」ということを言葉にしたとしても、そこには風圧、温度が入ってきて生々しい感覚が自分のなかを貫いていく。記号をはみ出して物質性に近づいていくということが可能になってくる。動植物はそういうふうに生きている。イリュージョン(幻想)がないから。人間の最大の能力はイリュージョンを持つことだが、このイリュージョンが記号化したり文明の世界を作ってくると、自然は入らなくなってくる。人間にはそういう欲望がある。都市を作るのは自然が入ってこないような空間を作ること。快適な暮らしがここで実現する。でも、それはイリュージョン。病気を作ってしまう。
〈小澤〉自然から遠ざかってしまうから。

芭蕉を旅する

〈中沢〉芭蕉のやったことは、まだ自然が記号化されていない、人間と自然を分ける防御壁が薄い東北、そういう世界の中にあえて踏み込んでいくという意味で人間の原初的なイニシエーション行為というか、聖者がやることを見る思いがする。
〈小澤〉芭蕉西行に憧れて倣って東北平泉へ行った。
〈中沢〉西行の頃、平泉は京都と比べてもそんなに遜色はない。そのころの江戸は原野みたいなところ。東北に行ったら、突然、エル・ドラド、黄金郷みたいな平泉が出現する。
〈小澤〉西行の見た平泉は、京都よりもまばゆかった。
〈中沢〉芭蕉の頃は江戸は世界一の大都市。平泉は、もう草に覆われた廃墟。芭蕉西行の後を追ったけれど、どこか根本的な違いが発生しているな、と感じた。
〈小澤〉芭蕉の平泉の風景は違う。
〈中沢〉小澤さんは、芭蕉を追って旅をしている。芭蕉西行を旅している。その時々の環境空間はひどく違う。
僕は、現代を生きている小澤さんには、一体何ができるんだろうかということを考えるんです。


*新しい冒険は可能か

〈中沢〉ノンフィクションで、冒険家の書いたものを読むと、冒険家が皆、困っているのが分かる。百年前の大冒険を、同じように目指すのだが、先輩の旅を追っても、自分達のやっていることは全部二番煎じ、どこへいったって、誰か先駆者がいて歩いている。今の冒険家たちは、すでに探検は終わっている時代に、なおも新しい冒険が可能かということに挑戦している。僕はそれにすごく共感を持ちます。小澤さんはそういうことを意識してやっているなあと感じるんです。僕らは二十世紀から二十一世紀の人間で、芭蕉が見ていたものとは、全然違う。そこへ行って俳句を詠む。その小澤さんの句が好きだ。芭蕉の句に対抗してどうするのかなあって。
〈小澤〉もう、どうしようもないですよ。
〈中沢〉それでもやっている小澤さんの試みが、今の冒険家がやる冒険と同じくらいにすごく健気で、共感を持つのです。

〈小澤〉芭蕉にはどうしてもかなわないのにやっているんです。超時代錯誤です。いや、俳句そのものが時代錯誤の詩です。「や・かな・けり」を使って詠むというのは、時代錯誤の面白さがあると思うんです。
〈中沢〉今、ここにある現実の中に一緒になって動いていって、それを言語化して、『サラダ記念日』みたいになったら……。それは俳句じゃないと思う。
〈小澤〉短歌は口語化したが、俳句はそのあとを追わない。
〈中沢〉「不易流行」という言葉は深い意味があるなあと思っている。不易なものは、同時代を生きながらも、時代から外に出ていかないといけない。でも、離れたところから変化流動生成している世界を、つまり流行の世界を詠む。そこに意識の行き来があるというところが、俳句の面白さではないか。
〈小澤〉不易流行、それが俳句の本質なのだと思います。


*オールを漕ぐリズム

〈小澤〉俳句の定型は奈良時代以前から用いられてきた五七調です。季語にも記紀歌謡、『万葉集』以来の言葉が少なくない。
〈中沢〉五七五七七、僕の感じではあれは舟を漕ぐこと、舟と関係しているだろうなと思います。
〈小澤〉オールを漕ぐリズムですか。


*結社は社会秩序に対抗する

〈中沢〉小澤さんが結社のことを話そうと言われた。すごく面白いと思った。
〈小澤〉結社という言葉、悪の秘密結社を思い浮かべて、恥ずかしく思ったり、時代錯誤と思ったり。でもそういうことが詩の本質とつながっているような気がしていた。
〈中沢〉結社は人類創世期からあり、深い。「悪の秘密結社」と言われるようになったのは、ヨーロッパのせい。革命を先導した結社に「悪」という名前がついた。ローマ帝国にも秘密結社があって、青年たちが作った。強靭な動物に扮して、自分達の体内にも凶暴な血が流れていると意識して、社会の秩序を守っている人と対抗する。それがちゃんと制度になっている。この対抗によってローマ社会は生き生きする。これはインドにもあった。
 青年たちが作った結社には特別なリーダーがいて、それまでの日常生活を捨てる。インディオの例では、菰を着て、断食、断水、幻覚性植物を摂る、そうしてだんだん自然の奥底へ近づいていった。
そういう結社を人類は必要とした。

〈中沢〉俳句結社の原型は中世の「座」でしょう。
〈小澤〉そうですね。
〈中沢〉「座」には規則があって、座に入る時は、外の社会の世俗的な条件を取っ払う。各個人が、自由な個として集団を作るというのが本来です。年、長老か若か。先達か後輩か。これでヒエラルキーを作り、その中で完全平等を貫く。
〈小澤〉座にはリーダーがいるんですか。
〈中沢〉必ずリーダーがいます。ヤンキーならヘッド、EXILE のHIRO みたいな人かな。
 連歌が座で発達するようになって、近代になると………ということを考えてみると、俳句の条件性はすべて、古代結社の条件とそっくりだと感じる。菰を着るくらいに貧しくなって自然と触れ合って、自然の声を韻律にのせて語る行為ですから、俳句自体が古代の結社性にいちばん近い形を表している。和歌と俳句、和歌は秩序を作る権力と一体。俳句は秩序を作っている意識から離脱して、自分の生存条件を限りなく自然に近づけていったところで発生する詩を作り出す行為。結社性を取り除いたら俳句はないと思う。


*現代生活というハンディ

〈中沢〉俳句のすごさを世間の人はわかっていない。
〈小澤〉わかっていない。
〈中沢〉俳句芸術って何なのかを明示する必要がある。
〈小澤〉俳句の世界だけで考えていたらだめですね。俳句は世界的存在ですから。
〈中沢〉俳句に匹敵する西洋詩は少ない。自然への踏み込み方とそれを韻律化していくやり方とか、ランボーくらいじゃないか。
〈小澤〉芭蕉の〈いきながら一つに氷る海鼠かな〉ナマコみたいなものを詠む詩は世界にないかもしれない。
〈中沢〉「フィロソフィー・オブ・俳句」って必要。だいたい回答は芭蕉の中に出ているように思う。
〈小澤〉芭蕉に聞いていきたいような気がします。
〈中沢〉正岡子規、やむにやまれぬ理由で、空間がすごく狭まった。その空間を微細に、細密画みたいに詠み出す。何度もからだから首が抜けている。自分の体を死体で見下ろす体験、ああやって芭蕉とは違う道に突っ込んだ人なんでしょう。小澤さんは新幹線があるからそれができない。もっとハンディを負っている。
〈小澤〉ケータイのカメラで撮ってこられるし、それが私の弱さにつながっている。
〈中沢〉現代人は芸術に対してハンディを負いながらやっている。宿命。芭蕉の後ろを歩きながら、芭蕉からずれていく。大変だが可能。
〈小澤〉やりがいがある。
〈中沢〉生涯かかりますよ。
〈小澤〉俳句の秘密、世界の秘密の数々を教えていただき、俳句をとても力づけていただけた。
中沢さんの詠まれた俳句もいずれご披露ください。
〈中沢〉自分で作らないというところがいいんじゃないですか(笑)


 ☆☆☆〔感想〕俳句自体が結社性を持つという主張に、興味を持った。また後を追いつつ、新しいものを探す、現代の俳句のあり方にも。たいした作者でもない私だが、いい俳句を読者として探し求めていいんだという鑑賞者としての確信も得ることができた。


 〔他の章にも、示唆に富む言葉があった。断片的だが、挙げておきたい。〕


*アースダイバー

〈中沢〉僕らの意識は日本語で形成されている。日本語に対応する現実は、いわば表層的地層の現実に対応するようなもので、この言語を喋り続けていると地層の下が見えなくなる。芸術は、特に俳句は日本語を語りながら、その日本語の中では見えなくなってしまう地層を掘り返し、発見し、掘り出して、表へ出す。そのために言語を変形する行為じゃないのでしょうか。
 なぜ、俳句がアースダイバーかというと、日本語を使いながら、地層表面にあるものとは別の地層に隠れているものを露出させる行為だから、それはある意味、見つけることであり、発見することにつながっていくんじゃないですか。


アニミズム

 (佐々木幸綱さんの問、金子兜太さんのことば)
佐々木「俳句は本質はアニミズム何ではないですか」
金子「そうなんだよ。アニミズムを無視して俳句を作るなと言いたいぐらいです。」

 中沢さんは、この応答を知って、俳句におけるアニミズムについて考えたという。


縄文人、インディアンの一元論的アニミズム

 「宇宙をあまねく動いているもの」これをかりに「霊」と呼び、英語では「スピリット」と呼ぶことにしましょう。このスピリットは宇宙の全域に充満して、動き続けている力の流れです。その「動いているもの」が立ち止まるとき、そこに私たちが「存在」と呼んでいるものがあらわれます。立ち止まり方が堂々として、何千年の単位で立ち止まっているものは石と呼ばれ、二百年ぐらいの単位で立ち止まったスピリットは、木というものになります。立派な木や石に出会ったとき、インディアンは石や木そのものではなく、その背後に流れている大いなる「動いているもの」に向かって祈りを捧げるのです。

 この一元論的アニミズムこそが、本当のアニミズムだと考えます。

 俳句のアニミズムということを考えるときには、アメリカインディアンの首長の考えるような古代哲学的なアニミズムの立場に立つ必要があります。原日本人である縄文人弥生人も同じ思考法で世界をとらえていたからです。
 
 あらゆる事物の背後に流動している霊=タマの働きを感じる思考法です。
 日本文化の面白いところは、国家が形成されたり中国大陸から新文化が移植されるようになっても、いっこうにアニミズムの思考法がその力を衰えさせなかったところにあります。


 閑さや岩にしみ入る蝉の声  松尾芭蕉
 
この句はまさにアニミズムの極致でしょう。〈岩にしみ入る蝉の声〉と言うとき、蝉を流れるスピリットと岩を流れるスピリットが、相互貫入を起こして染み込み合っています。それが〈閑さや〉というわけです。

 ☆☆☆〔感想]中沢さんの解説は続く。
立石寺の「死者の谷」と言われた、エゾ系の人々の埋葬地としての立地、芭蕉の時代のそこに至る足場の困難さ、自然の険しさ。死者の谷に、人間のからだから、自由になり、見えない流れに戻った霊がうじゃうじゃしている。そこに土中からでてきたばかりの蝉が鳴く。土中から立ち上がってきた岩もある。大地、岩、蝉、死者霊、それたすべてが相互貫入し合う世界、芭蕉は全感覚を開いてその全体運動を感知している、そしてこの句が生まれた。凄まじいアニミズム俳句であると。
こんなにスッキリとよくわかる解説は初めてだ。
小澤さんも、「中沢さんと話しながら、俳句について考えたこと」という最終章で、芭蕉がアース・ダイバーであること、俳句はアニミズムであることを例句を挙げて、述べている。
難しい内容であったが、何かモヤモヤした自分をも掘り起こされる感覚で、読み進んだ。まさにアースダイバーになっていた。気持ちよく読み終えることができた。