金子敦さんの俳句にある本歌取りの手法

 金子敦さんの俳句にある本歌取りの手法
               2017/8/18  
               十河 智

フェイスブックのお友達と話していた。金子敦さんの「音符」についてはもっともっと書きたかったのだが、まとまりが付かなかったので、一章の句の並びの中に、彼の俳句の傾向を感じられたらと、句を列挙することにした。それほど彼の句は、多方向に光を放っている様に思えた。そのまま現代人の作者が見える言葉が使われていた。歴史仮名遣いであるにかかわらず、有季定型であるにかかわらず、俳句でありながら、現代の自分の生活をきちんと見せることに成功していた。イメージを強めるために、俳句の短さを補足する連想を引き出すために、音楽や絵画の言葉や作品が取り入れられていた。そこがとても魅力的で面白かったし、彼の俳句に引き付けられたところであった。重複するかも知れないが、フェイスブックのお友達に向けたコメントをコピーする。

「金子敦さんの句集、ご本人のFBを見ていて、ひとに惚れ、本の装丁の写真で色に惚れ、フランス堂にも登録済みの手軽さもあって、手にしました。彼の句が自由で、自在に言葉を操っていることに驚きました。彼の後にある音楽や文学の素養、育ちの良さ、性格の穏やかさ、すべてが、俳句の真から涌き出ているようなのです。俳句や短歌の域から飛び出て、音楽や絵画からの連想を促しているようで、これは本歌取りの手法の延長に見えました。俳句の奥を知り尽くしつつ、現代人の自分たらんとしているのです。自然体に。その上に芸術的感性の鋭い方のようで、俳句にこだわる心の狭い人には、決して真似のできない句集です。いろいろ書きたかったのですが、私の高揚もすごくて、言い尽くせそうもなかった。まだ読んでいないひとに実感してもらいたかった。それが、あの形になりました。
 私も自分のスタイルで自分のみのうちにある言葉で俳句を作り続けて三十年、句会ではたまにしか評価されず、でも、やめようなんて思ったことありません。575、有季定型が気に入っています。」

最後の私への慰めは、金子さんのこの句集のすごさと何気なさの隣り合わせのところから、私が貰った勇気である。自分の言葉で、自分の内なるものから引き出す表現は、捨ててはいけないのだ。歩き続けなければいけないのだ。