「俳句の背骨」島田牙城著

牙城さんの「俳句の背骨」を読み終えた。いい本だった。牙城さんとは、ずうっと昔からお近づきになりたいと思っていたが、機会が無く、最近、FBを始めてから、「里」を知り、購読するようになった。邑書林とのつながりは、田中裕明賞の関悦史さんの本が最初であった。
「俳句の背骨」について書こう。牙城さんの表記についてのこだわりは、この本にもよく現れているが、私は、書き慣れた私の表記法で許していただこう。
虚子には、私も税を支払ったなあと思いつつ読み、爽波、裕明といわば私の師系にあたる方々に関する親愛の情のこもった記述は、何度でも読み返したい、こんなに近くにいらした牙城さんが羨ましくてならない、と思って読んだ。
この本で、最も書いておきたい読後感は、日本語の明快かつ明晰であること、日本語の記述は得てして曖昧さを云々される、美しく流れるが、言いたいことが翳むと。今はそれほどではないが、昔は日本語は論文には向かないとよく言われたものだ。しかし、牙城さんの文章は、とても読みやすく、適当な距離、客観性を保って、私の頭に入ってきた。充分に拘りと、強靱な自説を貫いているのだが、強要しないのだ。正字を採用していることが、効用しているのではと、表記法が理解度を高めているように思う。美しい日本語、絢爛豪華な日本語には思い当たるが、このように、内容が難しいのに、あっさりと明快な日本語はたぶん初めてだ。
変体仮名の記述も面白かった。今、仮名が読めるよう、書けるようにと、習っている。歴史仮名遣いを使って句を表記している。そのような私には、励ましになった。
牙城さんのお祖父様のお話があった。なるほど、漢字に造詣が深く、正字を使われるには、それだけの土台がおありなのだと思った。お父様の刀根夫さんも正字をお使いになる。洛神戸句会で御一緒の時、句会報の原稿を打ち込むものが、活字がないと悩んでいたのを思い出す。正字は、牙城さんには、当たり前の身に染みついた文字なのであろう。そして、先に述べたように、字の内包する意味が、この字によりよく伝わり、私達読むものをも助けてくれる。
そのほか、「青々歳時記」、中西其十、暦に関すること、どこをとっても、読み飛ばすことはできない、とてもわくわくするものであった。
私にしては、時間を掛けて読んだ、とても意義ある本となった。