「洛神戸句会」解散、句会報「洛」終刊

「洛神戸句会」解散、句会報「洛」終刊、そしてお別れ
                      2016/4/2   十河  智

   2016年3月27日、いつもの第4日曜日と同じく、私はJR学研都市線東寝屋川駅から神戸線三ノ宮駅へ乗り換えなしの普通に乗っていた。この日、およそ6年続いた「洛神戸句会」が解散し、その句会報であった「洛」も2016年3月号をもって終刊となるので、最後に集まり食事を共にしてお別れしようということになった。
    穏かな少し曇り気味の朝であった。尼崎を過ぎると西宮あたりから六甲山が見えてくる。芦屋、住吉と震災後の頑丈で新しい街並みとなり、この毎月一度のJRでの往復は、外の景色も中の乗り合わせる人の表情も、北河内東大阪大阪都心、尼崎の工場群、そして西宮から神戸という最高におしゃれな街、このようにいろいろに変化していくので、退屈することなく楽しかった。その日乗り納めかもと思うと、いつもの六甲もくっきりと美しく感じられた。桜がちらほら咲き初めで、とうとう降りることがなかった夙川の桜並木も少し残念な気持ちで通り過ぎた。
   洛神戸句会は、高浜虚子、波多野爽波、田中裕明と続く師系であるが、田中裕明の悲しい夭折があり、惜しくも解散した結社「ゆう」が母体である。「ゆう」には、虚子の最晩年の弟子にあたる方や、爽波の弟子になる方々も、また私のように「ゆう」発刊以後の会員もいた。穏かで、詩情を大事にする田中裕明の指導者としての魅力に、先輩方も一歩譲られて、「ゆう」が立ち上がったと聞いている。私は俳句を始めていたが、結社誌に投稿しても馴染めず、二度ほど、投稿をやめて退会した経験があった。爽波の弟子であった、大学の先輩が話を聞いてくれて、立ち上がったばかりの「ゆう」を教えてくれて、入会した。自分の句の拙さに気付かされ、嫌になるほどであったが、結社の仲間は温かく、句会の雰囲気は、きりきりとした緊張感とゆったりとした親近感を併せ持っていた。やっと寄る辺を見つけた思いであった。万年筆で書かれた直筆の裕明の書簡はその人柄をそのまま見せていて、今も私の宝物である。あの年、正月に帰省し、五日に自宅に戻ったところ、上梓された「夜の客人」とともに、田中裕明の病に敗れたことを知った。「ゆう」の五年が終わった。大切な五年間である。
  その思いを共有できる人たちが少しの時間をおいて、「洛神戸句会」に集まった。前から続く京都や髙松、高槻の句会もあり、「洛神戸」は十人ほどの小さな句会である。同じく高松にも小さな句会があり、投稿会員となってくれた。最初は句会と吟行を毎月一回ずつやっていた。たった6年前であるが、皆それぞれに若かった。大先輩である島田刀根夫さんが丁寧に指導してくださり、和気あいあいと助け合ってやってきた。仲間に印刷屋さんがいたことが話の始まりで、句会報を作ることになり、最初からこれも原稿の集積、利根夫選、原稿の打ち込み、表紙絵、編集、校正すべて手作りの二十頁ほどの小冊子であったが、残しておける体裁のものが七十三号まで発行できた。間では、五周年記念誌を出すことができた。"仲間とともに"を実感できた。
   その間に、最年少の私も七十歳に肉薄し、最高齢の方は九十歳に届くまでになった。神戸句会と言いながら、神戸に住む人よりも遠方から通う人のほうが多い句会であった。一人二人と減っていき、来る人も目や耳が衰え、足元が頼りなくなり、実際続けられなくなってきていた。会場を少しでも楽なところにと移してみもしたが、結局、相談の末、解散することにした。
   私は、幸いなことに、まだ少しずつなら歩くことができる。またどこか縁を通じて、受け入れているところがあれば、句会に参加したいと思っている。また、この句会と並行して、インターネットを通じて俳句を楽しむ術を教わり、そこにもいい先導の方々がいらっしゃって、仲間に入れていただいている。むつかしい一面もあるインターネットでの付き合い方であるが、怖れずに俳句の今を生きていこうと思っている。

   神戸三ノ宮でのお別れ会は年にあった豆腐料理にした。十一人が集まり、それぞれの思いを述べた。

亀岡から来ている人:
   「娘に制止されても、振り切ってきていた。来られなくなればもう終わりだという思いがあった。俳句はあまり作れなくなった気がする。」
まだまだお元気な事務局担当の方:
   「残念だけど、もうこれ以上は無理という判断で。またどこかで俳句を続けていたら会えますよ。続けてくださいね。」
句会報編集人:
   「俳句を始めたきっかけは、爽波さんにかなり強く誘われたこと。でも、ラグビーをやっていた私が、もう五十年俳句をやっているし、父も俳句をやっていたという縁も感じている。五周年記念誌を発行できたことが良い思い出。こういう形で、 きちんと句会を終わらせて良かったと思う。個人的には、硫黄島で戦死した父のことを書き上梓した本がことのほか受け入れてもらえたこと。」
高松句会から投句の人:
    「初めてお会いする機会なので、田舎から頑張って出てきました。本は、三冊いただき、どう扱われているかわからないけど、こういうことをしていると息子と娘に渡していました。髙松句会は続くけれど、本がなくなるのが寂しい。」
高松句会からのもう一人:
    「〝洛“の発行は嬉しかった。活字になった自分の句が違って見えた。俳句は髙松句会の世話人に結構強引に退職後の潤いある人生のためにやれと勧められたことがきっかけ。やってよかった。」
爽波先生の頃からの俳人:
    「長い俳句歴で、思い出すことばかり。祐明さんの亡くなられた時のびっくりしたこと。爽波先生のあれこれ。岡山にいた時の髙松の人との交流。足が不自由になって、仲間がみんないなくなって。また、どこかで俳句は続けます。」
もう一人、爽波先生の頃からの俳人:
   「仕事ばかりだったので、俳句が楽しみ。もう一つの句会だけになったが、そこもだんだん来る人が少なくなってきている。耳も聞こえにくくお世話になりました。」
さらにもう一人、爽波先生の頃からの俳人、会計の人:
   「最初から本を出すのは、会計としては大変と思った。協力して、少し本代を値上げして、ご厚志も頂戴して、ここまでやってこれたと思う。俳句はこれからも楽しく続けたい。ご協力ありがとうございました。」
京都の洛の世話人:
   「京都も少なくなりました。来る人がいるかぎり、やめられません。神戸のこの句会もたまに来させてもらい、投句の集積も協力できて、良かったです。」 
もと新聞記者の人(事情で一年位前から来られていない):
   「今日は刀根夫先生に会えると思って参加したが、会えずに残念。私は退職後、六十七歳から俳句を始めて、今で十年、つくづくと俳句をやっていてよかったと思います。人生の大変な時、皆さんに励ましていただいたこと。忘れません。ありがとうございました。」

 食事会は体調のこともあり、出席なさらなかった刀根夫先生に、ひとりひとり短冊にお礼の言葉を書いて、お世話の方に託した。こうして、食事の後、お茶をして、いつもの四時ごろ散会となった。これまでは、帰りを急ぐので、あまり親睦の意味の食事やお茶という習慣のない句会であった。その意味でも、この終わり方はよい思い出となった。

六甲に四季五度巡り花の時
老いゆゑの句会解散春愁ひ
俳句良し句友良しとぞ海朧
春障子年に優しき豆腐湯葉
今生に再会ありや山笑ふ
六甲も見納めかやと春の雲