セピアの家族

戦争についての俳句(「耕」への投稿)

セピアの家族
            寝屋川、十河 智
               (48才)
 父のゐるセピアの家族蚊帳を吊る
 生まれたときからずっとある写真、父と誰か知らない人たちの家族写真、蚊帳の吊り具のすぐ横に、いつも私たちと関係なさそうに。戦争と私をつなぐ一枚の写真。

 前線と銃後凍りて若き影
 海軍の制服姿の父と、どこか抑圧された婚期を失した母の、それぞれの戦時中の写真。 

  七月の空襲熱き死でありと
 終戦の年、7月4日の高松空襲がありました。逃げ惑う市民の中に、父を除いたあの写真の一家がいた。余りの熱さに防火用水の中で死んだ子がいたという。

 家跡に戦士二人の終戦
 人も家も何もない、記憶と番地だけの家の跡。戦地に赴いていた男二人が、生きて帰る。一人の妻は、もう一人の姉であった。この二人を結ぶ縁は、消滅していた。

 扇風機戦争滔滔語りをり
 叔父は、幼い私に、戦地での極限状況など戦争全般について、語り聞かせた。夏は、金属製の唸る扇風機に打ち勝つように滔々と。しかし、自分の母や姉の事は、欠して語らなかった。

  姉の名やセーラー服で入学す
 父方の伯父伯母たちは、亡くなった甥や姪を可愛がったのだろう。写真の中に、私と瓜二つの子がいる。セーラー服の私に、その子の名で呼ぶ年老いた伯父がいた。

  だんだんに年経て知れり盆用意
 戦争前後のいろいろが、毎年の盆用意をする頃に、私に本当に少しづつ断片的に語られ、判るようになってきた。

 戦の図要らぬと母は水打ちに
 母は私が余計な事を知らなくてもよいと考えていたようだった。戦争の悲惨さを訴える写真集を見ていた私に、要らぬと強硬に言って、用事に立った。

 死の床に誰ぞ尋ね来や寒雀
 父は死の床にいた。朦朧として脳裏には彼の人生が繰り返されているのだろう、ふと、全部が私たちではないんだと、外の寒雀ほどに知らない父を感じていた。

  初盆や父は彼岸に墓も分け
 父は彼岸に旅立った。35年ぶりに前の家族と会っているだろう。私たちは、お骨をもらう、墓も分けて。やっと、和解成立、戦後の終わり。


【二十年後の追記】 十河智68才
     
  高松の七月四日我が縁
 高松の空襲記念日は七月四日、私にとって特別の日である。父が全く知らずに、自分の妻子全員を失った残酷な一日であり、そこが、私の始まりの日である。その事実を知った後、私の思考の原点に渦巻く兄や姉の存在があるのである。東京や大阪など大空襲は、よく語られるが、高松でもこの日五千人が死亡したとされる。

昔所属していた「耕」で、戦争についての俳句を募集した。その時の投稿に、加筆したものである。