空襲

今日は八月六日、原爆記念日。毎年このころになると、新聞やテレビに戦争の記憶を想起させる記事・番組が増えてくる。私は戦後生まれだが、私の家族の私的な歴史のために、私にとっての戦争記念日は、七月四日、高松の空襲の日である。私の父の半生がそこで断ち切られた。父は、長崎の部隊にいた。長崎原爆は、かなり近い場所で被爆している。八月十五日、終戦の日以降に、全家族高松空襲の際焼死の事実を知った。皮肉なことに、学徒動員でフィリピンにいた義弟と、男二人が残された。復員後に周囲の気遣いにより、母と再婚し、私と弟が新しい家族となった。実家には、今も父も一緒の古い家族写真が掲げられている。姑、嫁、女三人、男二人の子どもたち、父も母も何も語らず、物心付いた頃から、不思議な写真であった。成長とともに、世間と社会が、謎解きをしてくれた。伯父叔母たちも、私の兄や姉のことを話すことがあり、今は、それなりに事情がわかっている。高松では、五千人近くの市民が亡くなったと郷土史の書物には記されている。日本の各地で、多くは誤爆と思われる空襲があり、本当にたくさんの犠牲者があったと聞く。
 
   蚊帳を吊るセピアの家族写真かな
   帰還兵二人残され終戦
   高松の七月四日わが縁
 
   戦の図いらぬと母は水打ちに
   死に伏せる脳裏に誰ぞ寒雀
   盆用意年経て少し知りにけり