終戦記念日特集「駅の子」

終戦記念日特集「駅の子」
       2018/08/13
       十河智

 終戦の日前後にはテレビ放送は、今はもう高齢の、戦争の語り部達が、よく出てくる。
 原爆の語り部としても、三歳のときに被爆した人が出ていた。もはや閃光が走ったという光景以外、覚えていることは、ほとんどなかった。だからこその最後の語り部なのである。
 この2年か3年、空襲の被害のことがよく報道されるようになった。
 昨日のテレビ番組で、「駅の子」という言葉を初めて聞いた。日本全国の都市で空襲があり、そのとき両親を亡くして、孤児となった子供達が、駅で暮らしたという。東京、上野、大阪、その他、渡り歩く放浪であった子もいた。
 「生きるために盗んだ」と、今は90を過ぎた人が涙する。
 「駅でただ座っていた」、「誰も話しかけてはくれず、とても孤独だった」、「世の中を恨んだ、大人のせいで、こんな目にあう。絶対に反抗して生きてやると思った」、「お父さん、お母さんと心で呼び続けた」、と語っていた。
 隣の子に見られないように弟妹とさつまいもひとつをわけあって食べ、3か月で有り金がなくなった、というお婆さんも、泣いていた。「弟や妹が先だった。分けてはあげられなかった」と言って。
 3人の男の子が大阪で、東京で助け合いながら生きていたが、一人が力尽きて死んでしまった。「眼が突然激痛に襲われ異変を感じたとき、横で付きっきりで背中をさすってくれた友達だった」と、「生きたかっただろうに」と、溢れ出る涙を見た。この人は、世の中が落ち着いて、救いの手が差しのべられたとき、最初に心を開いたのは、銭湯で背中を流してくれた先生だったという。
 私の父は、召集中に、高松の空襲で、残していた家族をすべて亡くした。私は戦後、父の゛新゛家庭の長女として生まれた。
 郷土史聞き書きで編纂した書物を読んだことがある。高松では五千人がなくなったと書かれていた。
 父の兄弟達が、甥や姪を必死に探して回り、家の近くの寺の前、防火水槽の中とその真下で見つけたと、大人になってから聞いた。そのときは姉や兄に当たるそのうちの一人でも生きていたらとも思ったのだが、父が帰る終戦後まで、この子供たちのようであったかもしれないのだと、「駅の子」の話は、私には怖くてとてもリアルであった。証言者の一人が、「可愛がってくれていた伯父さんを頼ったとき、冷たくされて、家を出た」そう言っていたのだ。うちの家族はそうはならないとは断言できない気がした。一人も残っていない再出発が父にとって幸いだったと、確かにそう言った人も近くにいたように思う。「人の心は冷たい、日本人は優しくない。」そう思った少年は、後に、苦学して中学教師になったそうだ。

高松の七月四日我が縁 

 この句は、高松での句会で出句した。そのとき、訴えるものを「縁」に感じると選者の方が取ってくれた。もう何年か経つが、郷土史の記述を見たときのものである。
 川を隔てた里山から、母方の親類は火事を眺めたという。
 
七月四日火の高松の地獄絵と

終戦記念日原爆記念日特集のテレビ番組での思いを句に託す。

終戦日テレビで語る九十歳
忘れてはいけないものか終戦
終戦日父のそれから我生まる
駅の子とふ戦争孤児の終戦
原爆忌被害の記憶後の世へ