長谷川晃句集「蝶を追ふ」を読みました。

長谷川晃句集「蝶を追ふ」を読みました。
        2017/8/8
        十河智
長谷川晃さんは「里」の同人である。句集「蝶を追ふ」を出され、購読会員の私にも贈って頂けた。しばらく身辺慌ただしくて、読むのが遅くなった。
 著者の背景を全く知らない。しかし開けてみると、まず、章題のつけかたが、気に入った。おそらくは句の一部を切り取ったと思われる「井の中の」「嘘に咲く」、興味を持った。どんな句かと。
 句集は、この俳人の俳句生活全部から選りすぐって、季語でひとかたまりに、並べられている。時を越えて、俳人が眼にした情景や感情、煩悶なども、季語に託されている。あまり激情的ではないが、確かに思いや感情が見える句である。

最初の見開きに並ぶ四句。
 立春の十円玉のにほひかな
 人間をあやす機器あり春立ちぬ
 すりおろす根菜ふはり春立てり
 春きざす私の中の悪魔にも
十円玉のにほひ、人間をあやす機器、根菜、私の中の悪魔、この俳人の世界は広いようだ。どこが中心なのだろう?興味が湧いた。
「春の雪」で並ぶ四句、
 下町は痒いところに雪残し
 解け残る雪に涙の匂ひせり
 解けぬやう身を合わせたり春の雪
 母の背にしがみつきたり春の雪
下町の痒いところ、涙の匂い、斑雪の身を合わせるとは、しがみつくものは、この俳人の個人的な体験なのだろう、住むところ、人情味、なにか、言いたいこと、表現したいものを感じさせるが、今一つ伝わりきらないもどかしさ。正直な感想である。同じく俳句を作る生活を送る私には、こんな人に分かりにくい句もたくさんできる。人を意識せぬ自分のための句もあっていい。
 跋文に島田牙城さんが書かれている。「寂しい人、すなわち詩人」、同感である。長谷川さんは、折りに触れて、自分の境涯を、感じるものを、表現したいものを、言葉にし俳句に整え、俳句の中に納めてきたのだ。ご本人はあとがきに言う、「句集を出そう」「笑って貰おう」人生そのものの俳句、人は、年を取ると、叫びたくなる。私の人生はこうだった、と。俳句やっているぞ、と。
 お礼の手紙に、こう書いた。「私は、俳句を楽しみ、内面からの呟きとも思い、自分の思い、見るものへの感覚のみを言葉にしてきました。それがずいぶん私を救ってくれたような気がします。………………… 句集にしようとか、どこかに出してとかあまり考えたことはないのですが、いつか一生の終わりにこんな句集もいいなと、思うようになって、『蝶を追ふ』を閉じていました。」

好きな句を挙げます。
 七度目の春告知書を眺めては
 残る鴨赤の他人に見えぬなり
 イルボンは地上の楽園黄砂降る
 春雷や独りぼっちの水餃子
 言の葉の埋もるる古墳青葉立つ
 あの人と蠅捕り紙がさみしさう
 あと八日僕の中にも蝉がゐる
 上野まで続く背高泡立草
 六本木ヒルズ森ビル望の月
 サイレンの止むのを待ちて根深汁
 壁紙にすればあたたか雪達磨
 妹の眼に蛇の色あり初大師